「一番大切な戒め」

「一番大切な戒め」

2020年4月
申命記6章1~9節
牧師  中西 健彦

私たちはそれぞれ家庭・学校・職場などに所属していますが、そこでは色々なルールが定められています。例えば、私の大学時代に配属された研究室では色々な細かいルールがあり、それを覚えるのに苦労しました。その一つを紹介しますと、実験容器を洗う際、「まず洗剤で洗ってから、水で18回すすぐ」という決まりがありました。その徹底された管理体制に、最初は「ここまでやるのか…」と驚きました。けれども、器具がしっかり洗えていなかったために、何時間もかけて行う実験が失敗してしまうケースを見て、そのルールができた背景には理由があることを学んだのです。

聖書にも、色々なルールが書かれています。特に、旧約聖書の前半に記される「律法」には、多くの決まりが記されています。それらを読む時に、私たちは「これは一体何のためのものなのか?」と思うかもしれません。でも、その律法が定められた意味を学ぶ時に、納得できることもあるはずです。今年は申命記から「神の民の生き方」を学びたいと思います。今回の箇所は申命記の頂点ともいえる箇所ですが、ここから神の民がいつも心に刻むべきことをご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ. 律法とは何か v1-3
「これは、あなたがたの神、主があなたがたに教えよと命じられた命令、すなわち掟と定めである。あなたがたが渡って行って所有しようとしている地で、それらを行うようにするためである」(1節)。ここには、神の民が約束の地でいかに生きるべきかを記した命令が書かれています。「命令」と聞くと、苦手意識を持つかもしれませんが、それは神の民が幸せに生きるためのものでした。そもそも神は、私たちに息苦しい生き方をさせようとする方ではなく、ご自分の民を愛し、その幸せを心から願われるお方です。創造の出来事にさかのぼって人間の成り立ちを考えると、私たちはこの神を愛し、従うように意図されて造られました。律法には私たちの本来の生き方が記されており、いわば「自由への道しるべ」ともいえます。また、主の命令を聞く前提に、この神によって救われたという恵みの事実があります。イスラエルの民がエジプトから救われたように、主イエスを信じる者たちも罪とサタンの奴隷状態から救われたのです。さらに、主はその救われた神の民にふさわしい生き方を教えて下さいます。

Ⅱ. 一番大切な戒め v4-5
4節には「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である」とあります。このシンプルな言葉の背後に、神がご自分の民を選んで救われたという契約の愛があります。イスラエルの信仰告白の中心は、主を唯一の神として宣言することにありました。当時の人々は多神教の世界に生きていましたが、それらは神ではないというのです。イスラエルのこの後の歴史が、偶像礼拝による失敗の道を辿ることを考えると、この「主は唯一である」という主張には切実なものが感じられます。これは現代に生きる私たちにも当てはまります。異教社会である日本に生きる時、私たちは意識しようがしまいが、絶えず色々な宗教的なものに向き合わされるからです。ただ、もしかすると「わたしだけに注目せよ」と語る神は心が狭いと考えるかもしれません。しかし、そのように言われる理由は、この神とその民との関係が「契約」に基づいていることにあります。例えば、結婚も一つの契約ですが、一度夫婦となったならば伴侶を裏切ることをせず、誠実を尽くすことが求められます(実際、聖書では神とその民が夫婦として描かれます)。何気なく読み飛ばしそうになる「私たちの神」「あなたの神」という言い回しの背後に、このような契約があることを覚えておかなければなりません。

5節では、それが積極的に表現されます。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。ここに中途半端な姿勢はありません。一言で言えば、「全身全霊をもって、神を愛せよ」というメッセージです。この「心・いのち・力」という流れにおいて、その人の内側から外側に向かって応答する順序が描かれ、自分の全存在をかけて神を愛するように求められています。これはローマ12章1節で、パウロがクリスチャンに対して記したことと同じです。「神のあわれみによって、神のものにされた者としてふさわしく生きよ」と。本質的な意味において、「献身者」とは牧師や宣教師だけに限りません。任された役割と責任が違うだけで、神を愛することにおいてはクリスチャン全員が同じ献身を神から求められているのです。ただ、正直に自分の姿を顧みる時に、私たちの内にはそのような愛がないことにも気付かされます。だからこそ最初に、主との契約関係が言及されているのでしょう。神への愛は、神の愛から出るのです。この愛は、何もない所から私たちが自力で作り出すものではありません。主が先に表して下さった愛に応答するのです。御子イエス・キリストがこの世界に来られ、十字架にかかって下さった。この原点に帰り、その神の愛に応え、神を愛するものとさせて頂きましょう。神への愛は、具体的には神に従うことにおいて表れます。私たちが神のみ声に聞き、小さな意思を働かせて、置かれた所で具体的に主に従っていく。その歩みを続けるのです。

Ⅲ. 御言葉を覚え、教え込む v6-9
6節からは、この教えの適用範囲、神を愛する領域の広がりについて記されます。この愛は、個人・家庭・社会において表されるようにと勧められます。「これらのことばを心にとどめなさい」というのは、絶えず意識的に考えることです。神の恵みを数えて、主と親しい関係の中に生きるようにと招かれている。8節には「これをしるしとして自分の手に結び付け、記章として額の上に置きなさい」とあります。それは私たちの生活すべてに、神の言葉を生きる工夫が必要だということでしょう。だからこそ、モーセはこのみおしえを心に留めるために工夫を凝らせという。私たちが恵みを頂く手段として、まず時間を取り分けるのです。皆さんは、一日のどの時間を神様に捧げているでしょうか。御言葉と祈りの時は、時間が余ったから取るものではありません。いつも愛する神の声を聞いて生きるのです。

次に7節では、さらにその適用範囲が家庭に広がります。「これをあなたの子どもたちによく教え込め」と言われる。神の民の教育は放任主義ではありません。人間は生まれつき罪に傾く傾向があるので、放っておいたら自然と良い人間になる、ということはないのです。家庭でも教会学校でも、主のみこころを一生懸命教える務めがあります。しかも、モーセは生活の全ての時間で信仰の教育をせよと言います。9節では「これをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい」と記されます。これは社会においても、神を愛することを覚えよという勧めです。この神の命令は、私たちの全生活に浸透することが意図されています。

これらの徹底ぶりに、もしかすると気後れしそうになるかもしれません。ただ、もう一度思い起こしたいのです。この命令は、私たちを愛し、救って下さった神が、私たちの真の幸いを願って与えられた戒めであることを。神の愛に応え、この自由への道しるべに従って歩む私たちでありたいと思います。