「乏しいことがない生き方」

「乏しいことがない生き方」

2020年5月

詩篇23篇

牧師  中西 健彦               

 ドイツの神学者ボンヘッファーが記した、「恐れに戦いを挑む声」という小さなエッセイがあります。人間が恐れに捕らわれる様子が、湖の上で嵐に遭う小舟にたとえられ、このような調子で記されています。
「嵐の中を、一そうの舟が波に揉まれながら進んでいきます。舟は小さく、波にもてあそばれ、今にも力尽きそうになっている。その時、何かが襲いかかってきました。何者かはわかりませんが、それが船乗りの上に冷たい両手を置くと、彼は力が抜けていきます。そして、この何者かは彼の心に働きかけ、奇妙な光景を思い出させます。彼は自分の家族を見ます。自分がいなくなったら、彼らは一体どうなるのでしょうか。また、彼はかつて悪に誘われた場所に再び来ているかのように感じます。さらに、昨日も傷つけてしまった隣人を見る。不安、罪悪感、孤独…そのような感情が彼を襲うのです。次第に彼はボンヤリとしてきて、もはや舵が取れなくなってしまう。そして、彼は最後の悲鳴を上げるかのように、『舟の中にいるお前は誰だ!』と声を張り上げました。すると、『私は恐れだ』という答えが返ってきます。たちまち、舟全体に叫びが響き渡りました。恐れが舟の中に満ちたのです。あらゆる力は麻痺し、すべての希望は消えていきます。しかし、まさにその時、このような約束が響き渡る。『キリストが舟の中にいる。彼の言葉が語られ、聞かれさえすれば、恐れは直ちに屈服し、波は引き、海は静まるだろう』。そのようにして、キリストが舟の中にいたという現実に目が開かれるのです。」

 恐れに駆られる時、私たちは勇気を失い、主体的な判断ができなくなります。とりわけ今は、世界的な試練に直面している状況です。ウイルスという見えない敵との戦いに脅かされ、一体これからどうなるのだろう…と不安になります。今回ばかりではありません。色々な災害が起こる時、身近な所で不幸な出来事が起こる時、その出来事にいかに向き合えばよいのか、私たちは迷います。けれども、信仰者にとっては一つ確かなことがあります。それは、キリストが私たちの人生に伴っておられるということです。

 ボンヘッファーはこのように続けます。「足りないものが一つだけある。それは、全能の神が私たちの父であるという信仰。私たちの最大の心配事といえども、神の前では親の前での小さな子供の心配のようでしかないという信仰。神の思いは私たちの思いよりも高く、優れているという信仰。神はどんな時でも、私たちのそばにいるという信仰。これがあなたがたに足りないものだ。この声を聞こうではないか。『信仰の薄い者たちよ、なぜそんなにこわがるのか。嵐のただ中でも、わたしが舟の中にいる』」。

 この主の臨在の約束は、何と励ましに満ちたものでしょうか。それは代々の聖徒たちを力づけ、今も私たちに語りかけられています。詩篇23篇はそのことを力強く約束し、多くの人に愛されています。今回は、この詩に込められた神の約束をご一緒に考えて参りましょう。

 イスラエルでは羊が生活に密着した動物として知られています。この詩篇の作者ダビデは、少年時代に羊を飼っていました。そのダビデが「主は私の羊飼い」と言うのです。それは言い換えると「私は主の羊です」という告白でした。羊飼いは羊の命を握っています。羊に草を食べさせ、水を飲ませ、獣が襲って来る時には体を張って守りました。羊にとって、羊飼いはすべてです。ですから、羊にとって誰が主人であるかというのは、それで羊の生き方が決まるほどに重要なものでした。それを実際に知るダビデが、「主が私の羊飼いならば、あとは何も要らない」と言うのです。

 この牧歌的な出だしから始まる詩篇は、ともすれば何の苦労も知らない人の気楽な言葉に聞こえるかもしれません。しかし、ダビデは実に波乱万丈な人生を送った人でした。若い頃には、自分の主君サウル王に妬まれ、何度も殺されかけ、本来敵であるはずのペリシテ人の元にまで逃げなければなりませんでした。イスラエルの王になってからも、息子アブサロムに謀反を起こされ、泣きながら荒野へ逃れなければならなくなりました。しかも、そのアブサロムが部下によって殺されると、ダビデは父親として深く悲しみました。試練に次ぐ試練に遭った人なのです。けれども、たとえ問題があっても「私の羊飼い」と呼べる方がいて、このお方に自分を委ねました。
 
 私たちの人生には順風満帆な日々もあれば、途方に暮れる試練の時もあります。一人一人具体的な課題は違えども、その旅路は山あり谷ありです。その現実を認めた上で、たとえ嵐が襲ってきても、「ここに逃げ込めば安全」という確かなホームがあるでしょうか。「自己責任」という言葉がしばしば聞かれます。もちろん、自分の生き方に無責任であってはならないでしょう。けれども、それでも私達は一生懸命やって、悩んだ末に失敗することもある。その時に、全部自分一人で責任を引き受けなければならないとしたら、そこには救いがありません。けれども、この詩篇は「あなたの帰るべき所はここだ」と力強く示しています。「主は私の羊飼い」という告白、それは信仰者に与えられた約束です。とりわけ色々なことに敏感になり、心が騒ぐ今だからこそ、私たちが目を留めなければならないみことばがここにあります。

 ダビデは続けて、「主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます」と言います。これを読むと、水の豊かな所、若草の茂る原といった牧場をイメージするかもしれません。けれども、イスラエルで羊が飼われる場所は、たいてい岩がゴロゴロしていて、草もまばらにしか生えていません。だから豊かな水と青草があり、しかも安全な所というのは珍しいのです。また、ここで描かれる「伏す」という動作は、羊がいっぱい食べてから手を巻いて安心して休む様子です。ですから、この羊飼いは羊の必要を知っていて、厳しい現実の中でも羊を十分満たすことができるのです。また、3節には「主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます」とあります。主は私たちの深い心の渇きをご存知で、私たちを生き返らせて下さいます。羊の歩ける所は沢山ありますが、主はご自分の羊を義の道へと導かれるのです。

 羊の群れは牧草地を求めて季節ごとに移動しますが、危険な所を通ることもあります。その状況が、4節の「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても」という言葉に表されています。しかし、ダビデは「私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」と語る。ここで「主」という呼びかけが「あなた」に変わり、祈りの言葉になっています。それはダビデが危機を思い起こし、これまで以上の主との近さを感じたからでしょうか。試みの時は、これまで以上に主を深く知る機会ともなります。「主よ」と呼びかける中で、私たちの心の内をこのお方に語るのです。その時、私たちは主が今ここでも生きておられて、私と共にいて下さるという臨在を知ることができるでしょう。

 5節では、「私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え」と場面が変わります。敵がいなくなったわけではありませんが、大胆にも主は祝宴を始めるのです。羊は最上のもてなしを受け、敵など気にならなくなるほどに満たされる。さらに、6節には「まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう」と記されています。通常は敵に圧迫される状況で使われる「追われる」という言葉が、ダビデの手にかかれば恵みの言葉に変えられるのです。主の羊を追いかけてくるのは、狼ではなく、いつくしみと恵み。主を信じる人の人生は、羊飼いなる主が共に歩まれるために、乏しいことなく恵みに満ちる。不安や恐れに駆られる時に、このみことばを思い出し、羊飼いなる主を見上げるものでありたいと思います。