「このような神を持つ偉大な国民がどこにあるだろうか」

「このような神を持つ偉大な国民がどこにあるだろうか」

 2020年6月

申命記4章1-8節

牧師  中西 健彦

 

昨年の夏に参加した神学校の夏期研修講座のテーマは、「モーセの福音に聴く」という申命記の学びでした。以前はあまり注目していない書でしたが、講師のダニエル・ブロック教授の熱い講義の中で申命記の魅力を教えられました。ちょうど「礼拝」に関する年間テーマを考えていたので、その学びを踏まえた上で、今年は申命記を学びたいと思います。

かつてイスラエルはエジプトの奴隷でしたが、主の救いのみわざによって「神の宝の民」とされました(申7:6)。その後、主は彼らに救われた後の生き方を教えました。それが申命記に記される律法、みおしえです。中には、律法にあまり良くない印象を持つ方もおられるかもしれません。律法は私たちを拘束し、自由を失わせるものではないか…と考えられがちです。しかし本来、律法は救われた神の民の生き方を教える「自由への指針」なのです。みおしえに従った生き方の中に幸いがある、と聖書は約束します。そこで、今回は申命記4章前半から、律法に隠された恵みをご一緒に考えてみましょう。

4章は「今、イスラエルよ」という呼びかけから始まります。ここでモーセが語る相手は、神の救いを経験した民でした。この順序が大事です。律法を守るから救われるのではなく、救われた後の生き方が律法に記されているのです。救いの恵みは単に天国に行くことだけでなく、地上で神と共に生きる中でも味わわせて頂くものです。みおしえは生活で実践することが意図されていました。それは神の民が生きるため、また主が与える約束の地を所有するためでした。このみおしえは、自分の好き嫌いで変えてはなりません。2節には「私があなたがたに命じることばにつけ加えてはならない。また減らしてはならない」とあります。この言葉の背後には、自分の願いをみこころとすり替える誘惑があったのでしょう。みことばを水増しせず、割り引かないこと。聖書には難解な箇所もありますが、明らかにされた主のみこころ全体をバランスよく教えられたいと思います。

3-4節では、みおしえに従うことがどれだけ大事なのか、一つの実例が示されます。それが民数記25章に記される「バアル・ペオル事件」です。それはイスラエルの民が神様を裏切って、バアルという偶像を拝み、そのためにさばかれた出来事でした。それはみおしえに従わない者の末路を象徴的に示しています。バアルは形を変えて、色々な形で神の民を誘惑します。偶像は私たちに一時的な満足を与えますが、結局は神の祝福を台無しにしてしまいます。神の祝福を受け継ぐためにも、悪しき世の誘惑から身を守らねばなりません。それと対照的に、4節で「主にすがってきたあなたがたはみな、今日生きている」と言われます。主にすがってみおしえに従うならば、私たちはいのちを得るのです。新しい地で生き残る唯一の方法は、みおしえに忠実であることでした。

モーセは、そのみおしえがいかに優れたものかを説きます。「これを守り行いなさい。そうすれば、それは諸国の民にあなたがたの知恵と悟りを示すことになる」(6節)。神の民がみおしえに従うならば、世に大きなインパクトを与えます。律法を聞いた諸国の民はその教えに感嘆し、神の民の知恵と悟りを認めるのです。みおしえが与えられたのは、単にイスラエルが約束の地で成功するためだけではなく、世界中に神の知恵を証しするものでした。現代の人々も、聖書に対して一定の敬意を持っているのではないでしょうか。「互いに愛し合いなさい」という命令を体現している交わりに触れる時、世の中にこのような人間関係があったのか…と思います。「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」という高い倫理基準は、初めて聖書を読む人を驚かせます。また、聖書は近代科学の土台となりました。さらに、弱い立場の人々を支援し、教育・医療・福祉にも大きな影響を与えました。その他にも文学・音楽・建築・芸術などの分野でキリスト者の貢献がなければ、世界はもっと退屈なものになっていたでしょう。神の言葉の中には、万人が認める賢さがある。この神の言葉にあずかっていることは、当然のことではなく、実は恵みの特権なのです。それは私たちに生きる基準を与え、自由にします。「あなたのみことばは蜜よりも甘い」という詩篇作者のように、みことばが与えられていることを喜んでいるでしょうか。

7節では神との近さ、祈りの特権を教えています。「まことに、私たちの神、主は私たちが呼び求めるとき、いつも近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民がどこにあるだろうか」。当時のイスラエルの周りの国々の神々、特に一番偉い神には、人が軽々しく近づけないと考えられていました。しかも、その神は自分の関心事で頭が一杯で、人間には興味がなかったという。けれどもイスラエルの民は、昼は雲の柱、夜は火の柱によって、神が共におられることを知っていました。また、シナイ山で律法を与え、ご自分を明らかにされる方でもあった。呼び求める時にはいつも近くにいる神なのです。さらに、当時の周辺諸国で信じられた神々がどのような存在だったのかを考えるヒントとして、アッシリアの古代図書館に残された「あらゆる神への祈り」という興味深い資料があります。それはこのような内容です。「どうか、私に対する神の怒りがしずめられますように。私の知らない神、女神の怒りがしずめられますように。知らずに、神の食物を食べたり、禁じられた所に足を置いてしまいました。神々よ、私の罪は大きいのです。私は罪を犯しましたが、実際、それを私は知らなかったのです。私は困っています。私の罪を赦して下さい」。この調子で続いていきますが、それは全体を読み終えた時には泣きたくなる内容です。知らない神々が著者の罪に怒りを燃やし、それを宥めなければなりません。けれども困ったことに、彼にはなぜ神が怒っているのかがわからない。それは、その神がどのような存在かがわからないためでした。日本人も災厄が起こる時、「何かに呪われているのではないか」と思います。啓示なき人間の発想は似るのでしょう。それにしても、どの神に罪を犯したのかわからないのは非常に困った問題です。自分が良いことを行っているのか、それとも悪を行っているのかさえわからない。けれども、聖書の神はご自分をオープンにして、私達に知らせて下さるお方です。ですから、私たちは知らない神の怒りを恐れる必要はありません。神がご自分の基準を詳しく教えて下さることは、無知な私たちにとって恵みなのです。

このような神を持つ、偉大な国民がどこにあるだろうか。神の民の偉大さは、彼ら自身が優れているというのではなく、彼らの信じる神との関わりからもたらされるものです。みことばは神の民のいのちであり、世にその義なる知恵を証しするものです。混迷を極める時代において、何を信じれば良いのかわからなくなる時、みことばにこそ真理があることを思い出し、その指針に従って主を証しして参りたいと思います。