「ひとすじの愛に生きる」

「ひとすじの愛に生きる」                   

 2020年7月

申命記5章1-7節

牧師  中西 健彦

 

かつてKGKで働いていた時、上司に叱られた経験があります。「このやり方ではこの先、君のためにならない」と率直に向き合って下さったのです。それは、私を育てるための戒めでした。皆さんも同じような経験をされたことがあるでしょうか。十戒もまた、人を生かす戒めであり、私たちが神に造られた本来の姿を取り戻すための「自由への道しるべ」として与えられています。今日は、その十戒の与えられた背景と第一戒を学びましょう。

Ⅰ. 契約の当事者として生きる v1-5

モーセは自分のいのちが終わりに近づく中、イスラエルに神の掟と定めを語りました。そのみおしえの中心にあるのが十戒でした。かつて十戒は、出エジプトの三ヶ月後にホレブ山で授与されました。それから約40年の歳月が経ち、世代交代した民に対して、モーセは改めて十戒を語り直すのです。「主はこの契約を私たちの先祖と結ばれたのではなく、今日ここに生きている私たち一人ひとりと結ばれたのである」(3節)。彼らにとっては、ホレブ山での出来事は昔話になり、自分とは無関係だと思われる危険がありました。けれども、契約の当事者は、今ここに生きている一人ひとりなのだ、と強調されるのです。彼らは神との契約を、自分のこととして受け取り直す必要がありました。

ここに、毎週の礼拝でみことばを聴く意味が示されています。私たちも聖書の出来事を経験していませんが、時空間を超えて、同じ神の民の一員とされています。みことばが単なる昔の話としてではなく、きょう、神の語りかけとして私たちに迫ってくる。それを自分事として受け取る時、私たちも同じ神との契約を結んだ民として、御声を聴くことができるのです。

Ⅱ. 前文:

十戒の前提にある救い v6

続けて、6節に記された十戒の前文を考えましょう。「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」。十戒の土台にあるのは、その救いの出来事に表された神の愛です。十戒を手にする前、イスラエルはエジプトの奴隷でした。けれども、神はかつての悲惨な奴隷生活から、彼らを救い出して下さいました。それは、私たちがキリストの十字架によって、罪やサタンといった暗闇の力から救われたことを象徴しています。

神は「これを守れば、救ってあげよう」とは言いません。十戒はすでに救われた人の生き方の指針を示し、主との交わりに生きる上での恵み深い賜物でした。旧約では律法を守ることで救われ、新約では信仰によって救われると誤解されることがあります。しかし、どちらも救いの恵みが先にあるのです。十戒は私たちを制限する重いくびきではなく、主にある豊かないのちを生きるためのものです。その意味で、この前文は全ての戒めの前提として覚えられるべきものです。十戒に従う原動力は、ここから生まれる。だからこそ、救いの恵みと神の愛を日々新たに知るものでありたいと思います。

十戒は「わたしはあなたの神、主である」という神の自己紹介から始まり、戒めよりも先に、まず「わたしとあなた」という神との契約関係に生きるように招きます。これは、私たちを奴隷の家から導き出した、その神からの愛の語りかけとして聴くものです。この私たちを愛して下さる神の前に、「あなたはどう生きるのか」と問いかけられているのです。「〜してはならない」という戒めには、「神に救われたあなたならば、まさかそんなことをするはずがないだろう」というニュアンスがあります。神の恵みを本当に知ったならば、その愛を裏切ることはできないでしょう。聖書の語る信仰は「頑張って信じる自分」に強調点があるのではなく、「私を造り、救って下さったこの神と共に生きる」という関係の中を生きることです。単に自分を磨くために戒めに従うのではなく、贖われた神の子として感謝の中を生きるのです。

Ⅲ. 第一戒:

ひとすじの愛に生きる v7

この前文の光の下で、第一の戒めを見つめましょう。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(7節)。主はご自分の民を愛するだけでなく、彼らの愛がご自分にだけ注がれることを求めておられます。では、「ほかの神」とは、どんなものを指すのでしょうか。ハイデルベルク信仰問答では、「偶像礼拝とは何か」という問いに対して、以下のように答えます。「偶像礼拝とは、唯一の神の代わりに、あるいはこの方と並んで、人間が信頼を置く何か他のものを考え出したり、持ったりすることです」。この第一戒を破るのは簡単で、自分の思いや愛情を神以外のものに向ければ良いのです。趣味・お金・仕事・名誉・家族・自分と、それ自体が悪くなくても、自分の心の王座に神以外のものが座っている時は、それは悪いものとなる。人が何を礼拝しているかは、その人の時間とお金の使い方、また心の傾け方を見ればわかります。偶像礼拝とは、神以外のものを神のように大事にすることです。偶像を取り除いたと思っても、いつのまにか別の偶像を握っているのが人間ですから、気付かされる度に手放すことが必要です。神を第一とする時、その偶像は正しい場所に収まり、恵みの賜物に姿を変えることも多いでしょう。

また、「わたし以外に」という言葉には、「わたしの顔の前で」という意味があります。他の神々と同列に主を置くことは許されません。主イエスもまた、「誰でも二人の主人に仕えることはできない」と言われました。「主に従う」ことと「主にも従う」ことの間には大きな隔たりがある。私たちは複数の神に従うことはできないのです。偶像礼拝が禁じられるもう一つの理由は、偶像は私たちを元の奴隷状態に引き戻すからでしょう。本質的に、偶像礼拝は自分を傷つけることです。神でないものを礼拝すれば、自分の内にある神のかたちは小さくなる。だから、主は偶像から手を引けと呼びかけるのです。

この第一戒の中心にあるのは、ただひとすじの愛をもって神だけを愛して生きることです。私たちの生活の全ての領域を、神の眼差しの前に置くのです。本当に信じ切っていいのか…とためらうかもしれません。けれども、この第一戒は、私たちが主を信じることにおいて、全体重をかけることを求めています。それは、主がその献身に答える用意があるからでしょう。迷いが生じるならば、何度でも救いの原点に立ち戻りたい。主は私たちを救い出し、奴隷の家から解放し、自由を与えられるお方です。私たちのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

聖書で言う罪とは「神から離れて生きること」ですが、その罪から救われたということは、神の方を向き直り、このお方を見つめて生きるということです。戒めを行う力は、この私たちに向けられた神のひとすじの愛から出てくる。これは「わたしを離れていのちを失うな。わたしと共に生きよう。あなたは救いの恵みと祝福の中に立ち続けなさい」という呼びかけなのです。日々、みことばと祈りによって主を親しく知り、偽りの神々を除き去り、主とともに歩んで参りたいと思います。