「第二戒:いかに神を礼拝するか」

いかに神を礼拝するか

 2020年8月

申命記5章8-10節, 出エジプト記32章1-6節

牧師  中西 健彦

 

宣教師フランシスコ・ザビエルの名前は、皆さんもご存知でしょう。彼は日本宣教に大きな足跡を残しましたが、その宣教には様々な困難も知られています。その一つは、言葉の壁の問題でした。ザビエルはヤジロウという日本人から日本語を学びましたが、ヤジロウはザビエルに神を「大日」と訳すように勧めたのです(大日とは仏教の大日如来のことです)。ザビエルは素直に従いましたが、これが後々大きな問題になりました。ザビエルは熱心に宣教しますが、なぜかお坊さんがそれを歓迎しました。ザビエルは、もしや以前にキリスト教が日本に伝えられていたのかも…と考えました。そこでザビエルは聖書の教えについて質問しますが、彼らは全く無知でした。ここでようやく、ザビエルは自分が犯した大きな失敗に気づきました。ザビエルは聖書の神を伝えようとして、別の指示対象である「大日を拝みなさい」と説いてしまっていたのです。

神は神でも、どのような神を信じるのかが大事です。フランシス・シェーファーは「信仰生活の戦いは、まず思考の世界で起こる」と言いましたが、神をいかに理解するかは私たちの生き方に大きな影響を与えます。今回は十戒の第二戒からふさわしい礼拝の方法を考えたいと思います。

Ⅰ. 自家製礼拝の禁止

第二戒は「あなたは自分のために偶像を造ってはならない」です。かつてイスラエルは、何でも神にするようなエジプトに住んでいたので、偶像によって神礼拝を行う危険性がありました。しかし、主は人間の自分勝手な礼拝を禁じ、みこころに沿った礼拝を求めておられるのです。旧約の歴史において、偶像は神の民に大きな影響力を持っていました。しかし、主は世界中のいかなる被造物もご自身になぞらえることを禁じています。神を目に見える形にした途端、それは人間の想像力の産物となり、神ではなくなるからです。

普段、私たちは神を目に見える像にはしません。けれども、しばしば頭の中で想像をたくましくして、心の中で自分なりの神を作り上げます。出エジプト記32章の「金の子牛事件」を覚えておられるでしょうか。それはイスラエルがホレブ山で十戒を受けて、40日経った頃の事でした。民はモーセがホレブ山に登ったきり、帰ってこないのを見ました。そこでモーセの兄アロンの元に来て、神を造ってくれと要求します。アロンは民の求めを拒むかと思いきや、彼らの声を受け入れて金の子牛像を造りました。注目すべきことに、アロンの姿からは、このことに罪悪感を抱いている感じがしません。むしろ、皆の不安を取り除き、主を礼拝しやすいようにと善意から像を造っているのです。彼らは、自分たちをエジプトから導いたのが主であることを知っていました。5節でアロンも「明日は主への祭りだ」と呼びかけています。ですから、アロンも民も、主ではない神を礼拝するつもりはなかった。その像が指し示していたのは、紛れもない主でした。そこには神を見える形にすることで、今までよりも親しく神を知ろうとする良い意図もあった。6節でも、一見すると彼らは翌朝早くから熱心に主を礼拝しているようにも見えます。けれども、主なる神を像に表すことで、信仰そのものが根底から覆されてしまったのです。

なぜアロンは、主なる神を子牛の像に見立てたのでしょうか。それは、当時の社会で広く受け入れられたバアルの神観が、無意識的に刷り込まれていたからでしょう。カナンで子牛の像といえば、バアルを指しました。ですから、金の子牛を拝むことは、主を礼拝しているつもりであっても、バアルを礼拝することになるのです。バアルとは、カナンで絶大な人気を誇る神でした。信じれば豊かな富をもたらすと考えられ、子牛の形を取り、エジプトでもその存在は知られていました。ここで重要なのは、アロンは金の子牛を「これがあなたの神バアルだ」とは言っていないことです。つまり、彼は偶像を偶像だと認識していないのです。旧約学者の津村先生は、これを「主の仮面をかぶったバアル宗教」だと呼んでいます。見かけ上、礼拝の仕方は似ている。礼拝している人たちも、主を礼拝しているつもりなのです。けれども、その内実は異教の礼拝にすりかわっていた。偶像を礼拝する当事者の目には、本物と偶像の見分けがつかないのです。このように神を偶像に仕立て上げるならば、神の姿が見えなくなる。その結果が「立っては戯れた」(6節)という言葉にも、ほのめかされています。たとえ善意であっても、現実であれ心の中であれ、想像力によって神を造ることは偶像礼拝の道を開くことになるのです。

このことは、私達も決して無縁ではありません。自分の前提を持ち込んで、自己流に聖書を解釈することがあり得ます。現代でも、バアルは形を変えて顔をのぞかせます。福音の内容が、単なる「自分の幸福と必要のため」という巷のご利益宗教と同じになることは少なくありません。心の平安を最優先とするならば、戦いを強いるみことばは読み飛ばしてしまいます。みことばが私達の生き方に挑戦するならば、「信仰は心の中の問題だ」と考える。また、聖書から主のことを教えられなければ、私達の祈りは異教的なものにもなり得ます。私たちの信仰は絶えずみことばによって吟味されねばなりません。聖書を解釈する時でさえ、先入観が邪魔して、読みたいように読んでしまうこともある。だからこそ、聖霊なる神が心を照らして下さることを祈りつつ、謙遜に聖書を読む必要があるでしょう。この第二戒は偶像礼拝に抗う姿勢を示すものです。奴隷の家から自由にされたものとして、神と人とを愛するがゆえの戦いがある。この戦いをしないならば、せっかく頂いた自由と神の民の本質を失ってしまいます。第二戒の意図を汲み取り、主ご自身を見失わない者でありたいと思います。

Ⅱ. みことばに従って主を礼拝する

アロンは金の子牛を造る上で、自分の想像力に頼りました。私たちも聖書を離れて「自分は神様をこんな方だと考えたい」と想像し、偶像を造るなら同じことが起こります。では、私達はいかに主を礼拝すれば良いのでしょうか。それは、自分をみことばの前にへりくだらせ、主の御声に耳を傾け、この方からご自身について教えて頂くことです。「主は火の中からあなたがたに語られた。あなたがたは語りかける声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった」(申4:12)。神の姿ではなく、あくまでも語りかけられる御声が強調されています。ここから導き出されるのは、偶像礼拝の反対は、みことばに従った礼拝だということです。人間は目に見えるものに左右されやすいですが、像ではなく言葉によって礼拝することこそ、聖書が私たちに教える礼拝の方法なのです。逆に言えば、偶像を造っている時とは、主のみ声を聴かず、それから逃れようとしている状態だとも言えるでしょう。自分の想像力によってではなく、みことばに現された神のみこころに従って礼拝をささげたいと思います。

5章9節には「あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神」と、偶像礼拝が禁止される理由が記されます。偶像礼拝は主のねたみを引き起こしますが、その裏にはご自身の民への真剣な愛があります。この第二戒の後には、警告と祝福の言葉が書かれています。罪を犯せば、悪い影響は後の世代にも及ぶ。ただし、ここで言われている強調点は後半にあります。3、4代と千代の差は圧倒的で、呪いよりも恵みがまさることを表しています。また、10節で主を愛することは、主の命令を守ることだと言われています。私達が神を憎むか愛するかは、主の命令を守る態度として表されるのです。あなたにとって、神はどのようなお方でしょうか。みことばに基づいて主を知り、礼拝をささげて参りましょう。