「第三戒:主の名をみだりに口にしてはならない」

第三戒;主の名をみだりに口にしてはならない

 2020年9月

 申命記5章11節

 牧師  中西 健彦

 

昨年の秋に誕生した娘の名前を考えるために、クリスチャンの精神科医ポール・トゥルニエが書いた「なまえといのち」という本を読みました。その中で、ある女性が人工中絶の手術を依頼するために、医師の元に訪れた逸話があります。その医師がためらう態度を見せた所、彼女は「先生、そんなに重要なことですか。ただの小さな細胞のかたまりじゃありませんか」と言いました。すると、その医師は「もしその赤ちゃんを生むとしたら、何という名をつけますか」と問いました。その後、長い沈黙があってから、その女性は顔を上げて言いました。「ありがとうございました。先生、この子を生むことにします」。その医師は、この出来事を「その沈黙の間、私は女性の様子を見ていると、目に見えて動揺していました。私は赤ちゃんの人格の誕生を見ているような気がしました」と振り返ります。トゥルニエは言います。母親がその子の名前に思いを巡らしている時、すでに彼女の心の中に、その子の人格が何らかの形で存在していたのです。対象に名前を与えることによって、その名前が彼女の愛を呼び覚ましたのです。このエピソードが私たちに教えてくれるのは、「名前はその人の人格を表す」ということです。第三戒「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない」も、名前に関する戒めです。今日はこのみことばから、主の御名をいかに扱うべきかを考えましょう。

Ⅰ. 主の名をみだりに口にするとは

十戒の前半には、神の民がいかに主を礼拝すべきかが記されています。第三戒が問うのは「礼拝の態度」です。主の名をどのように口にするかは、その人の信仰の姿勢、神への態度を表すものでしょう。私たちは週ごとの礼拝において、祈りや賛美を通して主の名を口にします。ただ、ともすると別のことを考えつつ、主の名を口にしてしまうことはないでしょうか。主はこの第三戒において、ご自分の名前が無下に扱われることを拒んでおられるのです。預言者アモスは、見た目ばかりが派手な礼拝に対して、「あなたがたの歌の騒ぎを遠ざけよ」と伝えました。礼拝は礼拝でも、主が憎まれる礼拝もある。その礼拝は惰性になり、悔い改めや神の恵みに対する信頼がなかったのです。このように御名をみだりに口にすることの根底にあるのは、神を恐れない心だと言えるでしょう。私たちの礼拝に対する態度はどうでしょうか。神のきよさの前にひれ伏し、自らの罪を悔い改める態度があるでしょうか。

さらに、第三戒は普段の生活で神の御名をどのように掲げているかを問いかけます。最近、トランプ大統領が強硬な手段を使ってデモを排除した後、教会の前で聖書を片手に持って立つ写真を見かけました。「正義は我にあり」といわんばかりに、明らかに政治的なパフォーマンスのために聖書を用いたため、批判が殺到したと聞きます。このようなことは歴史の中でも繰り返され、自分の言動を正当化する名目として、神の御名が乱用されてきました。それが第三戒の違反であるのは明白ですが、問題はもっと身近です。数年前、教会のリーダーのための集会である宣教師がこう語りました。「伝道における、最大の障壁はあなただ。神の民が神の民らしく歩んでいないことが、一番の課題だ」と。「私を見ないで、キリストを見てほしい」と言いたくなるかもしれませんが、主は私たちを通してご自身を証しされようとなさるのです。

この第三戒の後には、「主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない」という、念押しの言葉が加えられています。神はご自分の名が汚されることを許してはおかれない。ただ、そんなに厳しいのであれば、もう神の名を口にするのはやめよう、と思うかもしれません。けれども、問題は主の名を口にすることではなく、その時の態度にある。「みだりに御名を口にする」ことが禁じられる一方で、御名を呼ぶことなしに主を親しく知ることはないのも事実です。人間関係を考えてみても、名前を呼び合うことで親しい関係が築かれていくのでしょう。この第三戒の背後に、私たちとの真実な交わりを求める主がおられるのです。

Ⅱ. 御名が聖なるものとされるように

この第三戒が積極的に目指す所は何でしょうか。それは「主の名が正しく用いられ、御名が聖なるものとされるように」ということでしょう。「みだりに」ではなく、信仰を持って御名を呼び、真心から主をほめたたえるのです。この戒めが求めるのは、内実の伴わない礼拝ではなく、心からの礼拝がささげられることです。また、表面を繕うのではなく、神の民の生き方の実質を得、神との生きた交わりに生かされるように。主は、私達にご自分の御名を知らせて交わりへと招いて下さる方なのです。

モーセは出エジプトの働きに召される時、ホレブ山の燃える柴の近くで主とお会いしました。モーセが神の名前を尋ねると、主はご自分のことを「『わたしはある』という者である」と自己紹介されました。そのように主がご自分の名前を明かされたのは、ご自分の民と親しい交わりを築こうとされることの表れでしょう。私達は主の御名を知らされていますが、それは第一に神様が私達を選んで、ご自分のことを知らせて下さったからです。エレミヤ書33章では、「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答える」とも言われます。このように尊敬を込めて、御名を呼ぶことは信仰の現れですし、主はそれを求めておられるのです。また、主はキリストを通して私達にご自身を表して下さいました。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は与えられていない。そのようにペテロが言うように、救って下さる神の御名が私達に明らかにされています。さらに聖霊によって、「アバ、父」と親しくその名を呼ぶこともできる。また、第三戒でも「あなたの神、主」とあるように、やはりこの戒めの背後には、「わたしとあなた」という一対一の契約関係があることを覚えねばなりません。自分たちを愛し、救い出して下さった神に対していかに向き合うかが問われているのです。

旧約のイスラエルの民は罪のために、神の名を証しすることができませんでした。預言者たちの呼びかけに対して悔い改めず、御名がむなしく口にされるだけの礼拝を続け、自らの欲望を満たす偶像に従いました。そして、ついには捕囚というさばきを受けることになった。けれども、それで終わりではなかった。エゼキエル書36章には「わたしは、あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す」とあり、ここにご自身の御名のために立ち上がる主の姿があります。神の民に新しい心と霊が与えられる。それこそペンテコステに注がれた聖霊であり、この聖霊によって、御名を証しする生き方が可能になるのです。

主の祈りでは「御名があがめられますように」と祈られ、それは第三戒のこころを積極的に言い表しています。自分の力で御名を証しするのではありません。それは祈り求める結果、主がそのようにさせて下さるものなのです。神の御名は元々汚れているわけではないし、本来それ以上、聖くすることもできません。ただ、御名を取り巻く人間の変化を祈るのです。私を含む全世界が頭を垂れて、神をあがめるようにという求め。私達がキリストに似せられるならば、世はキリストを知るでしょう。神を真剣に信じ、神の御名をきちんと呼ぶ生き方は、世に対してインパクトを持っている。神の宝の民は、主の栄光を表す聖なる生き方へと招かれています。生まれながらの私たちは神の御名よりも、自分の名があがめられることを求めていました。けれども、「御名があがめられますように」と祈り、真心から主を呼び求めたいと思います。