「第四戒①:創造の第七日の意味」

「第四戒①:創造の第七日の意味」

2020年10月

創世記2章1-3節

出エジプト記20章8-11節

牧師 中西 健彦

皆さんは、主日礼拝を守ることで葛藤した経験があるでしょうか。第四戒「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」は有名ですが、このテーマについては人によって様々な意見があります。ただし、私たちは神様を忘れやすい弱さがあり、主日礼拝が神との関係を健やかに保つ上で必要なことは理解できるでしょう。今回は、この「安息日を聖とせよ」というみことばの本質を考えたいと思います。

Ⅰ. 安息日を聖とする
第四戒は十戒で最も長い規定であり、禁止ではなく「~せよ」という積極的な命令がなされます。第四戒では「礼拝の時」の問題が扱われています。神を礼拝するには時間を取り分けなければなりません。七日ごとに訪れるその繰り返しによって、神はご自分の民に契約を思い起こさせるのです。安息日を守る理由については、「創造」(出20:11)と「救い」(申5:15)の2つの理由が記されますが、今回は「創造」との関係について取り上げます。

「安息日を覚えて」という言葉に、それが忘れ去られる危険があったことが示唆されます。これは私達にとっても身近な問題ではないでしょうか。日々の忙しさの中で、礼拝を重んじる意識が薄れます。意識しなければ、自分のやりたいことが中心の生活になる。けれども、それを遮るかのように安息日が繰り返され、それを覚えるようにと招かれているのです。安息日は、神の創造のわざを喜び、私たちの時間に対する神の主権を認める日です。この安息日の制度の中に、自分のわざに頼ることをやめ、神の元に来なさいという招きがあります。安息日はただの休みではありません。一日中寝て過ごすとか、自分の趣味に没頭していればよいというわけではない。安息日は、神と結んだ契約を覚え直す日であり、働きを中断し、神を礼拝し、主の守りの中に憩う時なのです。そして、その日を聖なるものとせよ、と言われ、安息日を神に属する日として取り分けることが求められました。安息日に働きをやめることには、ずっと働かなくても神が養われることへの信頼が求められました。私たちは、自分に関わる全てのことをコントロールしなければと思います。ただ、その握りしめた手を、神は安息日の度に開くように促されるのです。休むことは、神に一切を委ねる信仰の表れであり、休まなければ神の働きにも気づけないのです。一方で、9節によれば、安息日は6日間の働きと深い関係があります。学びや仕事も家庭に仕えることも、神様から一人一人に与えられた務めですが、それは安息日によって意味あるものとされるのです。

Ⅱ. 神の安息を待ち望む
安息日によって、自分が被造物であることを思い起こし、労働と休息という神のリズムに生きるように促されます。11節には「それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした」とあります。創世記1-2章によれば、神は6日間で世界を創造し、7日目に休まれました。この「創造の第七日」における休息を覚えることが、安息日を守る理由とされるのです。

「創造の第七日」の意味を探る時に、安息日の本質が見えてきます。創世記2章1-3節にはこのように記されます。「こうして天と地とその万象が完成した。神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである」。ここで「第七日」が3回繰り返されますが、この日こそ天地創造のクライマックスであり、世界の完成を記念する日だと明らかにされているのです。神はこの日を他の6日間とは区別して、特別にご自身のものとされました。聖書でいう「安息」とは、神が世界を治めておられ、造られた物が完全に神の御手の中で守られている状態のことです。この第七日には「すべてのわざをやめられた」とあるように、もはやこれ以上何も付け加えることがありません。私たち人間のわざには、どこまでも終わりがありません。一方、神のわざは完全なものでした。この第七日の宣言は、神の元にこそ安息があることを証ししています。さらに、主がこの第七日を祝福し、聖なるものとされたことは、この安息が世界にとっての最終目的であることを示しています。

第7日には「夕があり、朝があった」という記述がありません。ここから教会は、神の第七日が指し示す安息がずっと続くことを読み取ってきました。もちろん神はそれ以降、働きをやめたわけではありません。神はこの世界でずっと働き続けておられ、今も全能のみ手でこの世界を保っておられます。安息日はこの創造の第七日を記念し、永遠の祝福を先取りするしるしなのです。それは単に週一回の休みの日ということ以上に、いずれ来る新天新地において、いつまでも主の元に憩う安息を表すしるしなのです。

アダムとエバは罪を犯し、神に背いたために安息が失われました。この地上には悲しみの涙があります。親しい人との別れ、病との戦い、死の厳しい現実に打ちのめされます。報われない空しさや満たされない渇きや孤独、また将来どうなっていくのかという不安もある。それは罪の悲惨がもたらした地上での現実です。けれども、それで終わりではありません。神は御国で、かつての安息を回復して下さるのです。この救いの完成のために今も道が備えられつつあり、神はずっと働いておられます。やがて神のみもとで憩う永遠の安息が用意されており、地上の安息日においても天国の前味を味わうことができるのです。安息日を覚える度に、私たちが再び「創造の第七日」が示す天の安息に招待されていることを思い起こします。私たちは目の前の出来事に追われて近視眼的になります。けれども日曜が巡り来る度に主を礼拝し、永遠の安息が備えられていることを覚えるのです。

この世では完全な安息が得られませんが、キリストの中に新しいいのちを見出す人には、この世での休息と平安を経験し始めます。地上ではその恵みの一部にあずかるだけですが、私達もこの地上のわざを終える時、完全な神の安息を頂くことができる。やがて天にて、永遠に神のもとで憩う約束が用意されている。古代教会の基礎を築いたアウグスティヌスもこのように祈りました。「主なる神よ、われわれに平安を与えて下さい。憩いの平安を、安息日の平安を、暮れることのない平安を与えて下さい」。それはキリストが罪を除き去り、神との交わりが完全に回復した時の平安です。主日礼拝をささげる度に、天での安息に憧れつつ、地上で生かされている日々を生きる力を与えられるのです。

創造の第七日を記念し、主との交わりに憩うために、安息日を聖なるものとしたいと思います。世にあっては色々な疲れを覚えます。私たちには神の安息が必要です。ですから、安息日を単なる義務感から守るのではなく、主と共に喜び楽しむ日として受け取りたいのです。イザヤ書58章13-14節には、「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『栄えある日』と呼び、これを尊んで、自分の道を行かず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとする。わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う」とあります。週一回巡ってくる主の日を、喜びと栄えの日として受け取りたいと思います。