「第四戒②:主が賜った安息に憩う」

第四戒②:主が賜った安息に憩う

2020年11月

申命記5章12-15節

牧師 中西 健彦

 
皆さんは、映画「炎のランナー」をご覧になったことがあるでしょうか。それは1924年のオリンピックに出た二人の陸上選手の実話に基づく名作スポーツ映画です。一人は、自分の存在意義を証明するために走るエイブラハム。彼はレースに勝つためならば何でもする男であり、厳しい練習の末に100m走で優勝しました。けれども、その金メダルすらも、彼の心の渇きを癒すことができませんでした。もう一人の主人公エリック・リデルは、「空飛ぶスコットランド人」の異名を持つ俊足の持ち主で、敬虔なクリスチャンでした。彼は、自分の生き方を心配する妹に「私は走る時に、神の喜びを感じる。神をあがめるために私は走るのだ」と語ります。リデルもオリンピックに出場することになりましたが、予選が日曜日であることが判明すると、悩んだ末にレースを棄権することにしました。リデルは神を喜ばせるために走るのであり、キリストにある深い安息を知っていたがゆえに、レースを棄権して金メダルを逃すこともよしとしました。結局、彼は元々出る予定だった100m走ではなく、400m走に出ることになりました。400m走のために練習していないリデルは、当初負けると思われていましたが、彼は400m走で優勝したのです。

翌年、リデルは中国に宣教師として遣わされ、そこで22年間良い働きをしました。この人は、キリストの内にある静かな平安を知っていました。だからこそ、安息日を守るためなら、オリンピックにさえ出ないという思い切った選択をしたのでしょう。それは自分の価値を証明しようと、頑張り続けるエイブラハムとは対照的でした。この対照的な二人の生き方は、私たちに何を存在の根拠にして生きるかを問いかけています。自分の価値を証明するために働くのか、それとも主が賜った安息に憩うことを知った上で、主の栄光を表すために生きるのか。私たちはエイブラハムとリデルのどちらに近いでしょうか。

  1. 奴隷状態からの解放

前回に引き続き、「安息日を守って、これを聖なるものとせよ」という第四戒を学びますが、今回は15節の「エジプトからの救い」から考えたいと思います。イスラエルの民は約40年前までエジプトの奴隷であり、体が壊れるまで働かされ、ゆっくり休むことは考えられませんでした。自力ではその圧政から抜け出せませんでしたが、主が彼らをエジプトから救い出されました。再び奴隷となることを防ぐため、主は安息日を設けて人を労働から解放したのです。このエジプトからの救いは、キリストの十字架による罪からの救いを予め示すひな形です。クリスチャンは、キリストの救いの中で安息を得ている人なのです。

私たちは日曜日ごとに、それを思い出すのです。主が私のために何をして下さったのかを思い出すことは、信仰生活の土台です。逆に、もし安息日がなかったら…と考えてみましょう。ずっと世の価値観の中で生き続ける時、私たちは自分の立場を見失ってしまいます。物事がうまく行かず、あるいは自分の罪に溺れて自己嫌悪になる時、その自分のために神の御子が死んで下さるほどに愛されている事実を思い出す必要があります。逆に、物事が順調に進み、自分で何でもやれているかのように感じる時にも、立ち止まって神の前にへりくだり、与えられた恵みに感謝をささげることが求められます。安息日はそんな神の救いの中にある私たちの立場を思い出す絶好の機会です。ユージーン・ピーターソンが書いた「信仰の友への手紙」には、こんな文章があります。「礼拝は、本当の世界への呼びかけだ。私は、現実についての嘘が絶えず蔓延しているのを日々目にし、真実が巧妙に歪められている事実に遭遇している。だからこそ、常にキリストにある現実を見失う危険の中にいる。現実とはもちろん、神こそがこの世の支配者であり、キリストこそが救い主であるということだ」。常に神の臨在を見失ってしまう危険の中で、礼拝をささげる度に世界の主権者を思い出す。これは、私達にとっても真実なことです。それぞれ遣わされた所で6日間過ごす中で、せわしない日常の務めがあります。私達は24時間、世の思想をにぎやかに受け取っていますから、識別力を持って一つ一つのことを判断しなければ、いつの間にか世の価値観と聖書の教えを混同します。けれども、そのような弱さを自覚するからこそ、日々ささやかであっても神様との時間を取り分けたいのです。私はキリストによって救われ、キリストのものとされている、その現実を週ごとに覚え直すのです。

  1. 休むことの意味

また、第四戒を別の面から考えると、私たちが労働の奴隷となることに対する「否」が表明されている、とも言えます。かつて戦時中に「月月火水木金金」という言葉が流行ったそうですが、休日返上で働くことが称賛されるような文化が、今も残っている所もある。現代社会は、私たちを忙しさに駆り立て、休みを奪おうとします。しかし、神を覚えることのない労働は、突き詰めれば自分の生活のための労働であり、それは奴隷と同じ生活原理なのです。意識的に安息日を守ることを選び取らなければ、自分の気まぐれな心、忙しさに駆り立てる社会や組織の力が、私たちをダメにしてしまいます。ですから、安息日はそうしたことからの解放の宣言です。むしろ、安息日を守ることでその仕事の意味を取り戻し、仕事を偶像とすることから守られるのです。

一方で、休息が必要なのは自分だけではありません。14節には、自分だけでなく、共に生きる人たちの休息も心にかける必要が記されています。約束の地に入った後には、奴隷や寄留者といった立場の人々もいたわけですが、ここに弱い立場の人を顧みる神の姿がある。第四戒は、人間には休息が必要だという福祉的なメッセージも伝えています。きちんと休める世界を作ることが求められている。第四戒は、前半の神を愛する戒めと、後半の隣人愛に関わる戒めとの間にある蝶番のような役割を持っています。神と人とを愛する、その2つを同時に生きる最も具体的な場所が、まず安息日をどう生きるかという所にあったのです。

安息日に休むためには、神への信頼が求められます。私たちは自分が働かなければ、仕事が終わらないと考えます。けれども、この世界を動かしているのも、家族を養っているのも、実は自分ではなく神なのです。「自分がいなければ世界は回らない」という幻想を手放し、たとえ週一日働かなくても、神が世界を守って下さることを信頼するのです。礼拝は、この世の旅路を歩む私たちが七日ごとに立ち返る「父の家」であり、私たちが自分は何者であるかを思い出す原点です。この礼拝が軽んじられる時、教会は力を失う。礼拝は教会にとっての生命線なのです。

ただし、仕事などの責任があって、やむを得ず休まねばならないこともあるでしょう。それをどう考えるかは、主イエスの姿勢から学ぶことができます。原則としてわかるのは、主イエスは安息日に会堂で礼拝をささげたということです。一方で、主はパリサイ人たちの律法主義的な安息日理解に対しては対決されました。パリサイ人は、安息日には悪いことも良いこともできないと思っていましたが、主イエスは良いわざを行い、安息日の本来の理解を示されたのです。安息日にみこころにかなう良いわざや必要な義務を果たすことは許されていますし、行うべきです。ただ、平日にできることがあるならば、日曜は礼拝のために取り分けることが必要です。安息日を聖とし、主のために過ごすものでありたいと思います。