「第五戒:神を恐れるがゆえに、親を敬う」

2020年12月
申命記5章16節、エペソ6章1-4節
牧師  中西 健彦
               
 私たちは、自分の親から多大な影響を受けています。その関係が良好であれば幸いですが、問題があることも決して少なくありません。そのような現実を踏まえた上で、第五戒「あなたの父と母を敬え」は私たちに何を語りかけているのでしょうか。

1. 信仰継承の場としての家庭
 十戒では、前半で神を愛すること、後半で隣人を愛することが語られます。その真ん中に位置する第五戒は、この神と人とを愛する架け橋になるような戒めです。親子関係は神との関わりを学ぶ大切な土台です。私たちは天の父なる神に向かって祈ります。その父なる神とのふさわしい関係を築くために、地上の親との関係が備えになるのです。他方、親との関係は最も身近な人間関係の一つです。ですから、第五戒が隣人愛の教えの初めに来ているのです。
 申命記には「信仰継承」というテーマが根底に流れていますが、イスラエルの民が神への信仰を学ぶのはまず家庭でした。クリスチャン家庭においては、自分の子供に信仰を継承する務めが委ねられています。その文脈でも、父と母を敬うことは理にかなっているでしょう。また、たとえ親が信仰を持っていなくても、この戒めは有効です。親子関係は神が定めた創造の秩序であり、親は神が立てた権威だからです。

2. 親子関係の原則
 私たちは、親に対してどのような態度を取るべきでしょうか。「敬う」という言葉には「重い」という意味があり、親をその重みにふさわしく尊ぶことが求められています。また、ここではどんな親かは言及されていません。親が親である以上、尊敬の態度が求められるのです。私たちは親に理想を求めがちですが、親も初めから罪人であることは折り込み済みです。この戒めは、子供はもちろん、主体的に神のみこころを選び取る責任を持つ大人たちに対して語られているのです。
 では、親から神に背くような命令をされたらどうすればいいのか、という疑問が起こるかもしれません。明らかに罪を犯させるような場合には、静かにNoと言い、神に従うことを優先すべきです。ロッホマンという神学者は「この第五戒は、上に立てられた人を尊敬する教えであって、崇拝することを求めているのではない」と言いました。親を敬うことは、絶対的な服従ではありません。主を第一とする時に、家庭の中でも戦いが起こり得ます。ただ、それはやむを得ない場合の例外であって、原則的には親への尊敬と従順の態度が失われてはならないでしょう。神を恐れるがゆえに、親を敬うのです。
 その一方で、親の態度も問われなければなりません。パウロは「父たちよ、自分の子どもたちを怒らせてはなりません」(エペソ6:4)と語っています。「子は親の所有物ではなく、神から預けられた賜物」というわきまえを持ちつつ、子の人格を認め、愛を持って接するのです。また、「むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい」と言われるように、みことばの基準に基づいて、信仰を持って生きることを様々な機会を通して教えることが求められています。

3.堕落した親子関係回復の指針
 そうは言っても、やはりこの戒めは難しいと思うかもしれません。しかし、この親子関係というテーマも、神が私たちに回復を与えようとしておられる領域なのです。家庭が壊れている現実を神は嘆き、それが変わることを願っておられます。逆に、この戒めがなかったら、どんな結果が生まれるでしょうか。誰かを心から敬うことができなくなります。いつも自分が中心なので、へりくだることを知りません。いつまでも幼いままで、信頼できる人間関係を築くことも難しい。神を恐れることもありません。そうなると家庭が壊れ、社会の崩壊を招きます。そのように考えていくと、第五戒は恵みの神が与えた、罪のもたらす悲惨からの解放の言葉として響いてきます。だからこそ、「それは、あなたの日々が長く続くようにするため…幸せになるためである」という約束が伴っているのです。両親を敬う人は、長く神の恵みを勝ち得るのです。親との関係における傷があれば、それを神に心を注ぎ出して訴えてよいでしょう。罪の奴隷から救われたあなただからこそ、その罪の連鎖を断ち切るようにと主は願っておられるのです。いつまでも恨みに捕らわれるならば、不自由です。恨みや復讐は神に委ねて、自由への道筋を歩むのです。敬えない親子関係があるとすれば、あなたの代で断ち切られなければなりません。どこまでも被害者意識から抜け出せない自己憐憫は罪です。赦せない思いがあるならば、全てをご存知の天の父の前に心を注ぎ出し、主に取り扱って頂きたいと思います。

 あるクリスチャンのご婦人は、幼い頃から家庭内暴力の問題で苦しんでこられました。両親は離婚し、お母さんと生活することになりましたが、父親がしつこく居場所を突き止めて、どこまでも追いかけてきたといいます。その父親に対して、彼女はずっと恐怖と憎しみを抱いてきました。青年期にクリスチャンになりますが、依然として父を拒否する思いは変わりません。けれども、聖書を読んでいると、墓場で悪霊に憑かれた人を主イエスが癒やされる話に心が留まりました。自分を傷つけ、周りの人を傷つけ、孤独に叫ぶその人の姿を見て、「あぁ、これは父ではないか」と思いました。血のつながった実の父親でありながら、愛情などひとかけらもなく、憎らしい父でした。でも、イエス様はこの父をも愛しておられる。そう思った時に、自分はこの父を一人で置き去りにしていたことに気づきました。それまで悪いのは全部、父だと決めつけていました。しかしこの時、彼女の心の中で何かがクルリと音を立てて回転しました。以前は考えられなかったことですが、「父をゆるそう。そして謝ろう」という思いが心に湧き上がってきました。その決意をしてからほどなくして、電話がかかってきました。いつもなら一声聞いただけで怖気立つあの父の声でした。ですが、その日は違いました。それは幼い頃に親しく呼んでいた「パパの声」でした。そして、「今までごめんなさいね」と言うと、父の態度は全く変わりました。「君は冷たい女だと思っていたけれど、本当は違うんだね」。とまどいながらも嬉しそうな父の声を聞き、彼女を思いやる言葉が伝わってきました。キリストの愛が彼女を変え、それが父親も変えたというのです。

 あなたの父と母を敬え。この御言葉に従う時に、新しい親子関係が生まれます。それは人間的には難しく、今さらどうしようもないと思うかもしれません。けれど、救われたあなただからこそ、できることもあるはずです。たとえ、どんなに不完全で、弱く、変わっていたとしても、神によって立てられた親であることを覚え、親を尊敬し、仕え、助けるのです。親は「私」という存在を誕生させるために神が選び、用いられた器です。私たちは0か100かで判断し、理想的な親を求めがちです。けれど、完璧な親は存在しません。みんな弱さや不完全さの中で悩みながら、子育ての責任を放棄せず、それを担い続けてくれたともいえるでしょう。親の弱さに傷つけられたり、赦せないこともあるかもしれません。けれども、私たちが赦す以前に、親から赦されなければならないこともあるでしょう。それぞれ状況は違いますが、この自由への指針に応答するものでありたいと思います。