「第六戒:いのちへのまなざし」

2021年1月
申命記5章17節、Ⅰヨハネ3章11-18節
牧師 中西 健彦
            
 昨年、ある番組の出演者が、インターネット上の心無い書き込みに傷つき、自らいのちを絶ってしまう事件がありました。現代は、個人的な面識がなくても人を殺せる時代なのだと思いました。他にもALS患者の安楽死事件、世界では大国間の争いの兆しなど、いのちを巡る様々な問題を意識させられます。このいのちに関して、聖書の語る教えはシンプルです。殺してはならない。それは、ある意味で常識ですが、さらに主イエスは言われました。「兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます」(マタイ5:22)。脅し、復讐、人を無視する態度、悪口、嘲り、ハラスメント…それらは殺人の延長線上にあるというのです。

1. 神のいのちへのまなざし
 第六戒は、人を殺すことの禁止命令であり、積極的に言えば「いのちを守る戒め」でもあるでしょう。ここで使われる「殺す」という元の言葉には、「あらゆる形の許されない殺人」という意味があります。ここに但し書きはなく、一言で全ての殺人が否定されています。この単純さが、私たちに殺人の悪の深刻さを問いかけ、いのちの持つ厳粛な意義を考えさせます。このことばは文字通りの殺人だけでなく、隣人に対するあらゆる攻撃を指しています。ヘイトスピーチは明らかな例ですが、「○○なんかいなければいいのに…」という思いは誰しも抱いたことがあるのではないでしょうか。また、最近は怒りのコントロールを扱うアンガーマネジメントが注目を浴びています。義憤の場合もありますが、私たちはしばしば許される範囲を超えて、怒りに支配されてしまうことが起こります。だからパウロは、「怒っても罪を犯してはなりません」というのです。怒り、妬み、復讐…それらは私たちの日常に無縁ではありません。
 第六戒のテーマは、聖書の至る所で扱われます。アダムとエバがエデンの園から追放された矢先に起こった出来事が、その子カインの兄弟殺しという問題でした(創4章)。罪人の歴史の初めにこの記録が刻まれていることは、生まれながらの人間が殺人の罪から逃れられないことを示唆しています。それ以降の聖書の記述にも、妬み、憎しみ、怒りによって人のいのちが奪われる記事が姿を消すことはないのです。
 一方、旧約聖書には、神がある人々を殺すように命じる「聖絶」の記事があります。これをどのように考えればよいかは難しい問題ですが、まず言えるのは、それが「当時の特殊な状況における神のさばき」だということです。当時、神は直接、指導者に対して具体的な指示を送ることがありました。その中で神の道具として、罪に対するさばきを代行することがなされたのです。ただし、それはあくまで当時の特殊な状況のことであって、現代において安易に戦争を正当化することは許されません。
 聖なる神は、その本性からして私たちの罪を見過ごしにできません。罪人は遅かれ早かれ、皆さばきを受けます。いのちの主権者は主なる神ですから、元々私たちはその可否を問う立場にはありません。その一方で、聖書には「主は悪者の死を喜ばない」とも書かれています。むしろ、その人々を生かすために、神の子キリストが十字架にかかって下さいました。キリスト自身がこの第六戒の犠牲になり、神のさばきをすべて受けて下さったのです。ここに、私たちのいのちをいつくしむ愛があります。たとえ「自分にはもう生きる価値がない」と思ったとしても、そのあなたを生かすために、キリストはいのちを捨てられました。「殺してはならない」という戒めに込められた、神のいのちへのまなざしを忘れてはならないでしょう。

2. なぜ人を殺してはいけないのか
 人を殺してはならない理由について、聖書は次のように記します。「人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである」(創9:6)。人が神のかたちに似せられて造られた以上、そこには神が与えられたいのちの尊厳があるのです。「いのちは神から与えられたもの」という確信がなければ、私たちは究極的に生を肯定できません。主はあなたに「生きよ」と言われます。なぜなら、神のかたちに造られたあなたの内には「いのちの尊厳」があるからです。たとえ障害や弱さを抱えていたとしても、神の前にその存在は尊く映っている。ですから、殺人はいのちの主権者への反逆です。裏返せば、神はそれほどまでに私たちを愛されているのです。
 一方で、私たちはひどいことをされる時、憎しみの心が芽生え、怒りが生じます。誰かのせいで損害を被ったならば、それを抗議する正当な権利はあります。ただ、それではどうにもならない問題もある。その時、この恨みの問題をどうすればいいのでしょう。「やられたらやり返す、倍返し」というのが人間の自然な発想ですが、聖書は「神の怒りに任せよ」というのです。使徒パウロはこのように記します。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい」(ロマ12:19)。復讐は神のもの。主が正しくさばいて下さることに信頼し、自らは善をもって悪に打ち勝つようにと勧められます。苦々しい思いを握り続けていても、私たちを苦しめるだけです。恨みがあれば、それを神の前に正直に祈る所から始めたいと思います。詩篇には不正に対する怒りも赤裸々に記されており、私たちの呻きを正直に神に語っていいことが明らかにされています。時間はかかるかもしれませんが、主は私たちの思いを取り扱って下さるでしょう。 

3. 人のいのちを守り、生かすことへの招き
 最後に、この第六戒が私たちに積極的に求める事が何かを考えましょう。それは第一ヨハネ3章11節以降で明確にされています。ここでヨハネは互いに愛し合うことを勧める文脈の中で、二人を例に挙げています。一人目はカインで、彼はアベルを妬んで殺したのでした。ここから「兄弟を憎むものはみな、人殺しです」と言われています。対照的なもう一人はキリストです。「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです」。人を殺すことの反対は、相手を生かすこと、愛することです。自分の兄弟が困っているのを見た時に、何が相手を生かすのかをよく考えた上で、助けることが求められています。
 また、第六戒は、憎しみに生きざるを得ない者を断罪する言葉ではなく、むしろ憎しみから自由になれる喜びが語られています。「あなたは神の作品です。隣にいる人もそうです。そのいのちを大切にしなさい。平和を作りなさい。隣人を愛し、隣人と共に生きなさい」。私たちはそのような神の招きを受けています。最初に記した通り、人を殺してはならないことは常識ですが、現代社会ではそこに但し書きがあるようにも思われます。「その人が望めば」とか「その人に生産性があれば」という枠の中で、いのちの価値を測ることがないでしょうか。けれども、聖書は例外を作りません。あなたには神のかたちが刻まれている。たとえ罪で歪められていたとしても、キリストはそれを贖うために自らのいのちを犠牲にされました。この恵みにあずかったクリスチャンは、第六戒の意味を誰よりもよく知っているはずです。その経験を持つ私たちだからこそ、人を生かす道を求めていきたいと思います。