「第七戒:性・結婚の祝福を味わうために」

2021年2月
申命記5章18節、Ⅰコリント6章18-20節
牧師 中西 健彦

 かつて私が高校生だった頃、伝道師の先生と二人になった時に、「結婚まで守らなければならない一線があるんだよ」と教えられました。それは結婚の厳粛さを教えられる一コマでした。「姦淫してはならない」というみことばは、教会であまり話されにくいテーマかもしれません。一方、世の発想からすると、「愛していれば良いじゃないか」と性的な自由が肯定される雰囲気があります。けれども、第七戒は結婚を神聖なものと扱い、自らをきよく保つことが命じられています。

1.神の祝福である性・結婚
 聖書は禁欲的に思われがちですが、実際は性・結婚を素晴らしい祝福として描いています。神は「生めよ、ふえよ。地を満たせ」(創1:28)と語り、性の交わりを通して新たな命を生み出すようにしました。創世記2章では、アダムがエバと初めて出会った時、心が震えたことが記されています(2:23)。
 その直後に、聖書の語る結婚観を凝縮した言葉があります。「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる」(2:24)。まず、「父と母を離れ」とあるように、結婚には親離れ・自立が前提とされます。次に「その妻と結ばれ」とあるように、一対一の夫婦関係を築くことが明言されます。独身時代には相手を選ぶ自由がありますが、一人を選んだならその人に誠実を尽くすことが求められます。その相手を愛することを、自分の使命として受け取るのです。最後に「ふたりは一体となる」とあります。夫婦の人格は違いを持ちつつも、心身ともに1つになるプロセスを歩み始めていくのです。そのために相手と向き合い、意識して関係を築く努力が必要です。さらに、自立した二人が一つになっていくプロセスには、心を通わすことに加えて、肉体的に一つとなることがあります。それは相手を知るという、人格の深いレベルの営みです。それは自分の心の穴を埋めるからではなく、相手の存在を知り、相手を生かすために全存在をかけて行うきよい行為です。これは二人が絶対に離れないという堅固な契約関係の中で、神の前で結婚した夫婦だけに許された祝福でした。「ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」(2:25)と、最も深いレベルまで分かち合う関係がここにあります。このように、聖書は性・結婚を神の最高傑作の作品としています。

2. 結婚を尊ぶ
 けれども、人間の罪はその祝福を破壊します。一般的に、性的な事柄というといやらしく汚い印象を持つかもしれません。現代は性的モラルが破綻し、性暴力や犯罪に歯止めがかかりません。人間が一人の人格としてではなく、欲望を満たすためのモノと見られている。そのような性の乱れが極まった時代に、私たちは生きています。欲望に身を委ねると、際限なく求めるのが罪人の性質です。どんどん強い刺激を求める先に、本来の性のあり方が歪められていく。それによって心の渇きが満たされることは決してありません。現代の交際では、スピーディーに体の関係を持つことも当たり前になりつつあります。世の中ではそれを自然なこととし、むしろ「経験が大切だ」と肯定するような雰囲気もあります。結婚の祝福を裏返すかのようにして、性は人間の罪が現れやすい分野ともいえるでしょう。
 主イエスは「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中で姦淫を犯した」(マタイ5:28)と言われました。この高い基準を前にする時、誰しもこの問題に無関係とは言えません。姦淫は夫婦関係に致命的な傷を残し、家庭を壊し、教会の交わりをも破壊します。だからこそ、主はこの戒めを与え、それが神の民にきよさを保たせ、夫婦の絆をも守るものとなりました。
 性の乱れが顕著なこの時代にあって、再び聖書的な結婚観を取り戻さなければなりません。結婚式の誓いに生きる決意をし、それが夫婦関係を守るのです。病めるときも苦しいときも、堅く節操を守ることを誓い、どんな時にも相手を決して裏切らない、愛するという契約を結ぶ。「私とあなただけ」という排他的な愛を信じられるからこそ、夫婦は自由でいられます。既婚者はいつもこの誓約に立ち戻り、伴侶に対する献身的な愛を思い起こす必要があります。
 また、体の関係を持つことは接着剤に喩えられます。それは自分のすべてを伴侶に与えるための方法であり、正しく用いられるならば夫婦の絆を強くします。ただし、結婚という堅固な契約を結ばない中で、肉体関係を持っては別れるということを繰り返すならば、その人は心身ともに傷ついてしまいます。肌と肌を重ねることは、二人が互いに「私は完全に、永久にあなただけのもの」と告白するために神が定めた手段なのです。使徒パウロは切実な思いで、世俗化したコリント教会に「淫らな行いを避けなさい」と語りました。私たちは「自分の体は自分のもの。他人に迷惑をかけなければいいだろう」と考えがちです。しかし、私たちはキリストの代価を払って買い取られた身であり、聖霊なる神が内に住んでいて下さいます。それを知る時に、私たちは単に禁欲的になること以上に、自分のからだをもって神の栄光を表すことを学び始めるのです。

3. 罪との戦いに生きる
 この戒めに真剣に向き合う時に、自らの隠れた罪に気付かされることもあるでしょう。その度に、キリストの十字架の元に行って、罪を赦していただき続けるのです。また、誘惑が襲ってくる時に戦うのです。御霊の実の一つは「自制」です。感情の赴くままにではなく、自分をコントロールするのです。罪が現実になるのは、その思いをずっと心の中で温めるからです。私たちが本来の結婚の祝福を知り、それを最大限に受け取るため、また聖霊の宮として主の栄光を表すために、神の恵みによって自制することを学ぶのです。
 世の基準からすると「何と窮屈な生き方だ」と思われるかも知れません。けれども、主は私たちを罪の奴隷から救い出し、神の愛に応えるようにとされました。そもそも、人間は本能のままに生きる動物ではありません。神と人を愛することができるように造られました。罪によってそれが不可能になったにせよ、クリスチャンの内には聖霊が住んでいて下さっています。この御霊の力によってきよさを保ちつつ、結婚を神の賜物として受け取り直し、その尊さを証ししたいと思います。
 「愛があれば何でも許される」といった風潮は、私たちの間にも忍び込み得る発想です。しかし、そこで言われる愛とは、自分たちの都合で正しさがコロコロ変わるものでしょう。むしろ、神の言葉である聖書の真理に従ってこそ、私たちは本当の愛に目覚めることができます。また、この時代にあって結婚まで待つ恋愛、あるいは夫婦が愛し合う家庭があるとすれば、それだけで証になります。たとえこのような生き方が不自由だと言う人も、自分が絶対に裏切られない、愛し合える関係を心底求めているのではないでしょうか。第七戒は、そのような人間関係を実現させる自由への道しるべです。結婚を重んじること。その誓いに忠実に生き、伴侶に誠実を尽くすこと。きよさを保つこと。私たちが伴侶を裏切らず、姦淫しない文化を造る時に、それこそ世の人々も潜在的に求めている生き方として、人々の心を惹きつけて行くのです。