「第八戒:奪う生き方から、与える人生へ」

2021年3月
申命記5章12節, エペソ人への手紙4章28節
牧師 中西 健彦

 以前、大阪・釜ヶ崎でホームレス支援を行っている教会を訪問したことがあります。その町は日雇い労働者のドヤ街として知られ、公園は路上生活者で溢れ、差別や搾取の現実が今も渦巻いています。一方、近くには「あべのハルカス」という日本一の高層ビルが見え、まさに貧困と繁栄のコントラストを象徴しているかのようでした。同じ日本社会の中でも、搾取される構造の中で苦しみ、生活や自由が盗まれている人々がいます。そのただ中で、人々の自立を目指して支援しつつ、伝道に励む教会の姿から教えられました。「差別や搾取はなくならないが、減らすことができる」と語られた牧師の言葉は、今も心に残っています。
 さて、今回は「盗んではならない」という戒めを取り上げます。誰かのお金を奪い、店の売り物を盗むならば、警察に捕まる。それが悪いことは、皆が知っています。けれども、盗みはなくならず、昨今はその手口もますます巧妙になっています。

.「盗み」とは何か
 第八戒が扱うのは「所有」の問題です。「これは、かなりよく見られる悪だ」とルターが言うように、日常の中に潜んでいます。第八戒が求めるのは、盗もうと思えば簡単に盗める状況でも、あえて盗まないことです。また、単に物を盗むだけでなく、他人を犠牲にして自分を富ませる試みすべてが禁じられ、隣人の所有物を尊重することが求められています。聖書では様々な盗みが描かれ、その対象は多岐に渡ります。お金を奪うだけでなく、人の心を自分に向けるように操作したり、人を奴隷にしたり、自分の考えを神の言葉だと語ることもこの戒めの範疇に含まれます。実に、盗みは神を恐れない社会の一つの特徴なのです。
 また、当然果たすべき義務を果たさないことも、盗みに当たります。仕事をサボることで、雇い主からお金を盗むこともある。時間を守らないことで他人の時間を盗み、悪意のうわさ話によって他人の信用を盗むこともある。個人の問題だけではなく、社会において大掛かりな盗みがまかり通ることもある。利権絡みの問題や、政治における不正のニュースは今に始まったことではありません。私たちはこの社会で行われている盗みに対し、目を覚ましていなければなりません。

.なぜ盗んではならないのか
 「盗むな」というルールは、一般常識として知られます。ただ、聖書はこの戒めの背後にある独自の理由も示しています。その理由は、神こそがこの世界の全ての所有者であることに端を発しています。だからクリスチャンは自分が持っているものも、神が与え、預けてくださったものだと考えるのです。事ある度に、何かが与えられた ことを神に感謝するのは、主があらゆる恵みの源だという理解があるからです。聖書は、私達が自分の財産を持つことを認めています。また、主から委ねられた賜物もあります。それは私たちが神から委ねられた分として感謝しつつ、ふさわしく管理して用いることが求められています。
 この理解には、他人の所有を犯さないことも前提とされています。第八戒について、子供向けに書かれた文章があります。「私達の持ち物は、体もお金も時間も、すべて神様からの贈り物です。神様はそれらを感謝し、ふさわしく管理し、神様の栄光のために用いることを求めておられます。その贈り物を自分勝手に使ったり、他人の物を盗んだりしてはなりません」。与えられている分はそれぞれ違います。ただ、私達はその預かりものを、正しく用いたかどうかを後に問われます。「よくやった。良い忠実なしもべだ」と主からの言葉を頂くためにも、任された分を賢く活用したいのです。
 この理解が失われる時に、私達は自分に与えられた以上に、掴み取れるものは何でも掴み取ろうと思うようになる。盗みの芽は、より多くを手にしたいという欲望から生まれます。心の中で誰かのものを自分のものにしたいと思い、実際に何らかの手段を用いてそれを奪うこともあるでしょう。自分が苦しい時に他人が幸せそうなのを見て、それを妬ましく思う。その人間の罪の根深さを思うのです。自分が得をするためなら、相手が理不尽な思いをしても良いと考える。そのようなことは日常の中で溢れているのではないでしょうか。なぜ盗むのか。この問いの理由を突き詰めると、自分に与えられているもので満足できないからでしょう。
 一方、使徒パウロはあらゆる境遇において満ち足りることを学んだといいます(ピリピ4:11)。それは主が必要を満たして下さることへの信頼があったからです。私たちが神の摂理に信頼するならば、神の与えたもので満足することができます。けれども、しばしば私達はもっと欲しいと考えます。その意味で、盗みは神様の下さる賜物に対する不満の表明でもあります。盗む人は他人からそれを奪うことによって、神が与えた以上のものを得ようとするのです。また、パウロはエペソ教会にこのように書き送りました。「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい」。パウロは誰もが盗みの素質を持っていることを知っていました。その上で、盗むのではなく、勤勉に働くようにと記すのです。もちろん、思いはあっても働く機会が得られないこともあります。ただ、もし働くことができるならば、誠実に働く必要がある。神が恵んで下さるから、努力しなくていいというのではありません。怠惰もまた、盗みの動機として扱われています。カンニングする学生は、自分が勉強しないので他人の答を盗もうとするのです。

. 奪い、貯め込む生き方から、与える人生へ 
 このように考えていくと、盗みの反対は盗まないことではなく、与えられたものを分かち合うことです。聖書は私達が正当に働くことを、贅沢するためにとか、安心を得られるようにとは言いません。むしろ自分の手で骨折り、困っている人に分かち合うことが求められていました。労苦して得た正当な報酬を、困っている人に寛大な心で与えるのです。ただ、この問題は私達の内側が変えられなければ、どこかで行き詰まってしまいます。ここで十戒の前提を、もう一度考えたいのです。主が私達を罪の奴隷から救い出して下さったから、心の渇きを他のもので満たす必要はなくなりました。神様がいつも良いものを与え、御子のいのちさえも与えて下さったのです。だからこそ、今度は頂いた恵みを他の人に伝えたいという願いが沸き起こってくる。主と本当に出会った人は、生き方が変わるのです。奪い、貯め込む生き方から、与える人生へ。主の愛を知る時に、ザアカイだけでなく、私達も貪る生き方から自由にされます。私達は主から頂いた恵みを、周りの人にも分かち与える生き方に招かれています。
 第八戒は、他人の所有を守る責任にも目覚めさせます。ただ、盗みが溢れる世界において、一体この働きに何の意味があるのかと諦めそうになることもある。けれども、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働く。そういう人が一人でも増えれば増えるほど、私達の周りに神の国が広がります。自分にできる小さなことから取り組みたいと思います。与えられたものを適切に管理し、自らの手によって骨折り、他者を生かすために働く。その中で、「受けるよりも与える方が幸いである」というみことばの意味を深く教えられたいと思います。