「第九戒:偽りを避け、愛をもって真実を語る」

「第九戒:偽りを避け、愛をもって真実を語る」 

2021年4月
申命記5章20節, エペソ人への手紙4章25節
牧師 中西 健彦

 今回は、第九戒「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」について考えます。嘘がいけないことは常識である一方で、偽りは身近な問題です。「嘘も方便」ということわざもあるほどに、多少の嘘は構わないという風潮があるのではないでしょうか。言葉がないがしろにされる時代において、私達はいかに言葉を扱えばよいのでしょうか。

偽証の持つ破壊力
 元々、この第九戒の想定される状況は、裁判の法廷だと言われます。イスラエルでは、日常の小さな事を含めて事件が起こる度に裁判が行われました。そこで鍵を握るのは証言者であり、その言葉によって判決が左右されることとなります。何を話すかで相手を生かしも殺しもするため、証人は重い責任をわきまえる必要がありました。律法の中には破れば死刑になる名目もあります。ですから、もし悪意によって偽証がなされる時、相手に濡れ衣を着せて殺してしまう危険もあったのです。それを防ぐために、証人は必ず二名以上必要とされ、かつその証言をした者が最初に手を下すという規定もありました。もし証言が偽りならば、その災いがその人自身に振りかかる危険もあったのです。さらに、「多数に従って悪の側に立ってはならない。また、訴訟において、弱い者を特に重んじてもいけない」という規定もあります(出23:2-3)。また、法廷でなければ偽りを語っていいわけでもありません。ある意味で、私達はいつも証言台に立たされていると言えるでしょう。
 偽証とは、全く新しい嘘をつかなくても、強調点を変えて誰かに不利なことを話すことでも成立します。アブラムのように真実の片面を話しつつ、大事な側面を隠すことで自分に都合よく事実を見せかけることもできます(創12:13)。人の語る言葉はいつも真実とは限らないことを、私達は知らされています。けれども、主はご自身の民に偽りを語るなと命じられるのです。神は真実である一方、悪魔は「偽りの父」と呼ばれます。創世記3章で、サタンの化身である蛇がエバに偽りを囁き、神の愛を疑わせたことで、彼らは神に背いて罪を犯しました。それ以降、人もまた蛇に似て、偽りを語るようになりました。ですから、偽りは罪の根源であり、嘘をつく人は悪魔の性質を帯びているとも言えるでしょう。偽りの証言は、隣人を危険な立場に陥れます。ですから、その評判を不当に傷つける軽率な悪口や陰口を語る衝動を抑える必要があります。神の民にふさわしい言葉の使い方があるのです。

愛をもって真実を語る
 それでは、もう黙っているのが一番ではないか…と思うかもしれません。しかし、他の戒めと同じく、第九戒にも積極的な生き方が示されています。それを端的に表すのが、「ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」というみことばです(エペソ4:25)。ここでパウロは偽りを捨てることと合わせて、隣人に真実を語ることを求めます。偽証の反対は、隣人を愛するために真実を語るということです。隣人に対して良い意図をもって、真実を語るのです。15節には「愛をもって真理を語る」と言う言葉もあります。正論を言う時も、相手の立場を考えて話すのが大事だということでしょう。また、29節には「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい」ともあります。自分の言葉が相手を建て上げる言葉になっているか、吟味したいと思います。無理におだてる必要はありませんが、良いことに関しては正当に評価し、感謝を伝えることも求められるでしょう。
 ただ、真実を語ろうとする時、そこで新たな問題も起こり得ます。他の人の打ち明け話や秘密を、誰かれ構わず話すわけにはいきません。十戒の目標が神と人への愛だと考える時に、何でもかんでも話すことが良しとされているわけではありません。一方で、誰かを危険な立場から救うために、知らされた秘密を責任ある立場の人に告げることもあるでしょう。いずれにしても、それは「隣人を愛する」という目的において判断されることです。
 さらに25節の後半には、「私たちは互いに、からだの一部分なのです」という一文が続きます。新しい人を着ること、偽りを捨てて互いに真実を語ることは、「キリストのからだなる教会とはどのような存在か」という大きな文脈の中で語られています。クリスチャンが互いに偽り、悪口や陰口を言い合うならば、愛と交わりの絆が破壊されてしまいます。偽りは、教会における混乱と問題の元となるのです。だからこそ、パウロは教会における真実な交わりの形成を訴えています。偽りを語らないからこそ、真実な交わりが建て上げられていきます。ここに第九戒がもたらす祝福があるでしょう。私達は誰しも、そのような人間関係を求めています。たとえ意見が違ってぶつかること、あるいは罪のために戒められることがあったとしても、相手が自分を建て上げ、愛そうとしているのであれば、その言葉も受け入れやすくなるのではないでしょうか。決して裏切らず、互いに人格を尊重し合う交わりを作ることを、第九戒は目指しているのです。
 第九戒は、隣人がいわれのない誹謗中傷を受けている時に、その名誉を守ることもその範囲に含まれます。言葉によって人を守る。それは弁護士だけの仕事ではなく、私達の普段の日常でも出くわすことです。同時に自らも、人の語る言葉を捻じ曲げないで聞く努力が必要です。悪意をもって聞き、話の一部分だけを切り取らず、全体として何が言いたいのかを意識する。事実に基づいて判断し、相手を建て上げる言葉を語るということです。そこには真実の許す限り、隣人の名声を傷つけずに守ろうと努める公正さが求められます。
 一方で、悪しき偽りに対しては否といい、隠れている嘘を明らかにし、真実を求める姿勢も必要でしょう。歴史学者のハラリは、「一度だけ語られた嘘は嘘のままであり続けるが、1000回語られた嘘は真実になる」と言いました。悪を隠蔽し、真実が葬り去られるような風潮に対して、やはり否と言う必要があります。また、第九戒は教会が真理を語らないことへの警告でもあります。平安がないのに「平安だ、平安だ」と語る偽預言者のようであってはならないのです。罪をかばって偽りを正当化するのではなく、それと向き合い、悔い改め、真の回復を目指すものでありたいのです。大小問わず様々な偽りがはびこる世において、真実な言葉が語られることが必要です。またSNSなどインターネット空間での情報を鵜呑みにせず、慎重に注意深く情報を見分ける識別力をも養いたいと思います。神の民は、偽りを捨て、隣人を愛するために真実を語ることへと召されています。神のみもとに宿るのは真実を愛する人です(詩15:1-3)。自らの口にする偽りに気づく時には悔い改め、愛をもって隣人に真実を語るものでありたいと思います。人を傷つける言葉ではなく、むしろ人を励まし、建て上げ、生かす言葉を求めて参りましょう。