「第十戒:いかなる境遇でも、主にあって満足する」

「第十戒:いかなる境遇でも、主にあって満足する」

2021年5月
申命記5章21節, ピリピ人への手紙4章10-13節
牧師 中西 健彦

 以前、東北のお寺を訪れた際、ある一角に「知足」と掘られた石を見つけました。住職はその「足るを知る」という言葉について、あらゆる問題の根源が人間の欲望にある、と熱く語っていました。確かに、現代社会は欲望が膨れ上がった社会と言えるかもしれません。市場は人々の欲望を際限なくかき立て、様々なコマーシャルによって私達の心は捉えられます。この欲望という問題について、私達はどのように向き合えば良いのでしょうか。

Ⅰ. 十戒の頂点である第十戒
 第十戒では、この人間の欲望について扱われています。「あなたの隣人の妻を欲してはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲しがってはならない」(申5:21)。少し長いですが、「隣人のものを欲しがる」ことが禁じられています。ただし、この問題は「殺人・姦淫・盗み・偽証」などと異なって、なぜ禁じられるのか理解しにくいかもしれません。「心の中で何を考えても、誰かに迷惑がかかるわけでもないし…」と思われがちです。その一方で、欲望はあらゆる罪の根に潜む問題とも言えます。他人の持ち物を羨む思いが、盗みに発展する。みだらな思いで誰かを見る時に、姦淫を犯す。少しでも稼ぎたいという心が、安息日を無視させる。欲望こそ、全ての戒めが禁じる行為への道を開く。犯罪に手を染める人は「魔が差した」と弁解しますが、それは心の中で芽生えた衝動的な欲望が原因です。第十戒は、私たちの心の中にある貪欲の問題に切り込み、私達の内側を問いかけます。
 しかし、「欲しがることの何が悪い」という声が上がるかもしれません。現状に満足するだけならば成長がないし、経済活動があってこそ社会は回っているではないか…と。確かに、第十戒は向上心を否定しているわけではありません。人間の自然な欲求も、それ自体が悪ではありません。けれども、それがコントロールできなくなる時に、他人を傷つけます。「隣人のものを欲しがる」ことが罪なのです。「妻、家、畑、男女の奴隷、牛、ろば」というのは、当時の代表的な所有物を網羅しています。これらの隣人のものを欲した先に、妬みの問題が起こる。誰かが自分よりも幸せならば、それを妬ましく思う。
 少年ダビデが強敵ゴリアテを倒した時、みながそれを褒めそやしました。すると、サウル王はダビデを妬み、そこからサウルの生き方が歪んでいくのです。一方、ダビデもまた、忠実な部下ウリヤの妻バテシェバが水浴びしているのを見て、彼女を欲しくなり、姦淫の罪を犯すことになった。しかも、自分に不都合な事実を揉み消すために、王の立場を利用してウリヤを殺すのです。欲望は誰にも見えず、自分でも気づかないかもしれない小さなものです。しかし、密かに忍び込んだ欲望を放置した末、恐ろしい姦淫と殺人がなされました。
 また、何かを欲しがる理由として「現状への不満」があります。今の自分に満足できず、誰かと比べてその人の幸せを妬むのです。貪欲は神の恵みをないがしろにし、満足と喜びを失わせる罪です。本来なら感謝の日々であるはずが、自分の内にある貪欲の罪のために恵みが色あせてしまう。「貪欲は偶像礼拝です」とパウロは語りました。自分の欲望を何よりも大事にする時、それは偶像となります。
 第十戒は十戒の頂点ですが、「そんなの守れっこない」と思うかもしれません。それもまた真実です。第十戒は、私達の罪を徹底的にあぶり出す戒めとしての側面を持っています。ここに律法の大事な役目があります。パウロは律法を「キリストに導く養育係」だと言いました。十戒は、単に私達に良い人間になれと言っているのではありません。自分の罪に気づかせ、どうしても救われる必要があることに気づかせるのです。罪を深く知ることに比例して、救いの恵みを改めて鮮やかに教えられるのです。

Ⅱ. 神の恵みに満足することへの招き
 第十戒は私達に罪を気づかせる一方で、積極的な側面も持っています。欲しがることの反対は、満足し、感謝し、喜ぶことでしょう。欲しがらないためには、心が満たされている必要がある。求めるべきは、「私はあわれみ深い主のみ手の内にある」という神への信頼です。この戒めが語るのは、単に歯を食いしばって我慢するとか、修行して悟りの境地に至ることではありません。与えられた恵みを味わい、楽しみ、それに感謝するようにというのです。
 これまで多くのキリスト者を励ましてきた御言葉があります。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています」(ロマ8:28)。今置かれた状況に、確かな神の支配があることを知る時、私達は現実を見る目が変わってきます。第十戒が指し示す生き方は、現実離れした禁欲主義ではありません。他者との比較から解放されて、神様がどれほど自分を愛し、良きもので満たしてくださっているかを数えるのです。ここで再び、十戒の前文「わたしは、あなたを奴隷の家から導き出したあなたの神、主」(申5:6)に戻りましょう。主にあって罪から救われた事実を覚え、憐れみ深い神のご支配が、神の子とされた私に及んでいる。神に愛されている者として、救いの事実を見つめた上で、この戒めを聞く必要があります。「あれがない、これがない」とつぶやきやすい私達ですが、神の慈しみを信じることで、いつでも感謝を選び取ることができるのです。
 また、ピリピ4章10-13節では、牢獄の中にあって満たされたパウロの信仰の境地が垣間見えます。これはピリピ教会からの捧げ物を感謝する文脈ですが、パウロはその捧げ物に込められた愛に感謝するとともに、自分はどんな境遇にあっても満足することを学んだと言うのです。「私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」(12節)。これが書かれたのは、自由が制限される牢獄の中でした。しかし、パウロはそこでも平安があり、満足していた。どんな境遇でも、主が彼を強くして下さるからです(13節)。ここにパウロだけでなく、私達も強くなれる秘訣が隠されています。課題が解決するかは、真の問題ではない。主は、私達の要求をいつも叶えて下さるとは限りませんが、本当に必要なものはすべて与えて下さいます。思い煩いを主に委ねる時、神の平安が私達の心をキリストにあって守ってくれる。地上の歩みに問題は絶えません。しかし、私たちには、変わることのない神の愛とキリストの福音という確かな土台があるのです。
 自分と神との関係が正される時、貯め込む生き方から恵みが溢れ出る生き方に導かれます。主との交わりに憩う時に、受けるよりも与える方が幸いだという生き方が、自分のものとなっていくのです。喜ぶ者と共に喜び、泣くものと共に泣き、神の家族とされた仲間を愛する。隣人を愛する。そのように私達が変えられる時、私達の内にある「神のかたち」が回復していくのです。クリスチャンは貪りから自由にされており、どんな状況でも主にあって満足することができます。他人を妬んでいる自分に気づいた時には、「その人にはその人の歩む道がある。ただ、自分にも十分な神の恵みが与えられている」と信じたいと思います。自分に与えられているものを感謝し、受け入れるのです。御霊の助けを頂き、心の刷新によって自分を変えさせて頂きましょう。地上では思い煩いの種は尽きませんが、その時に主に祈り、キリストにある平安で満たして頂きたいと思います。