ルカの福音書23章32節〜43節
今回は「主は…十字架につけられ」という言葉を取り上げます。キリストの十字架は私たちに何をもたらし、何を問いかけているのでしょうか。
Ⅰ. 自分ではなく、罪人を救うために来たキリスト v32-39
史上最悪の刑罰といわれる十字架ですが、聖書は淡々と事実を伝え、主イエスが十字架につけられた意味を考えさせます。まず目に留まるのが、主イエスの位置です。2人の犯罪人の間に挟まれて、十字架にかけられました。罪なき神の独り子が、あたかも罪人の代表のように極刑に処せられるのです。
その周りを、色々な立場の人々が取り囲んでいます。民衆はこれまで主イエスの教えを喜んで聞き、主の奇跡を目の当たりにしました。けれども、祭司長たちに煽られて「十字架につけろ」と叫び、今やただ立って傍観者として、ただ見物するだけでした。議員たちは念願叶って勝利に酔いしれていましたが、執念深く死に際までも追いかけ、あざ笑いました。兵士たちは「ユダヤ人の王」という札の下で無様に苦しむイエスを見て、こんな王があるかとあざ笑います。一緒に十字架につけられた犯罪人は自ら苦しみに喘ぎつつも、嘲りのコーラスに加わりました。この人々は「もし救い主なら自分を救え」という共通の論理を持っています。ここに人間の考える救い主のイメージがあります。死に直面した土壇場で、自分を救えないような者が、まことの救い主として通用するのかというのです。
自分を救わないキリストをどう考えるか。これは福音の核心を突く事柄です。世の常識ではこう考えます。「救い主なら、自分を救えるはずだ。なのにイエスはただ苦しんでいる。だからイエスはキリストではない。十字架がその何よりの証拠だ」。
でも、もう一人の犯罪人の見方は違いました。彼は一緒に十字架にかけられた主を見て、そこに単なる無力な囚人以上の存在を見て取りました。クリスチャンも同じです。「イエスがキリストであるにも関わらず十字架につけられた」とは考えません。むしろ「キリストであるからこそ、十字架につけられた」と信じるのです。
旧約聖書によれば、罪の赦しには動物の血が必要とされました。義なる神は私たちの罪に聖なる怒りを燃やし、それに目をつぶることができません。しかし、その神は同時に愛の神でもあります。私たちを何とかして救おうと、独り子イエス様を遣わし、私たちの身代わりに十字架にかかって下さった。その血をもって、私たちの罪を贖われたのです。十字架は、イエスがキリストであることを否定するしるしではなく、むしろその証拠です。主イエスは、十字架から降りられないのではない。むしろ降りないことによって、私たちの救い主となられたのです。
さらに、主イエスはこの痛みと嘲りの中で祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(34節)。最悪の状況の中で、自分を十字架にかけた者のために、神に赦しを乞うのです。この主の姿を、よく思い巡らしたいと思います。不当に苦しめられる時、その相手への恨みや怒りで一杯になり、のろいたくなるのが私たちの姿です。でも、主イエスは逆でした。最も親しい弟子に裏切られ、人々から憎まれ、嘲られ、十字架にかけられました。でも、そこまでされながらも、その相手の赦しを祈ることが果たして人にできるでしょうか。
また、主はこうも言われました。「彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」。罪が罪だとわからないのは、ここにいた人々だけではありません。私たちもまた、自分のことを誰よりも知っていると思いながらも、それとは裏腹に罪を犯し続けている。自らの罪に気づくのに鈍く、主イエスの愛がわからない。でも、そんな私たちのために、主イエスはこの祈りをもって十字架で死んで下さったのです。この十字架上の祈りは、主イエスを十字架につけ、そんな重大な罪を犯した自覚もない私たちのための祈りでもあります。私のための主の十字架、それがわかった時に信仰が生まれます。
Ⅱ. 十字架上の回心 v40-43
そのような応答が、この時に一人の犯罪人の内にも起こりました(40節)。以前から、主イエスの噂は聞いていたかもしれません。でもこの時、この方が本当に罪なきお方だと知りました。自分たちはやってきたことへの報いを受けるのは当然だ。そういう人生を選んできたのだから。でもこの方は違う。仲間と一緒に、この方を罵っていてはいけない。また、父なる神に赦しを請う、その主のとりなしが自分にも必要だと考えたのではないでしょうか。
そして言います。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」(42節)。控えめな言葉ですが、これは主イエスの前にへりくだった彼なりの信仰告白でした。彼は「天国に入れてください」とは頼めません。図々しすぎると思ったのかもしれません。でももしできることなら、神が私を憐れんで赦してくれないだろうか。その願いを「私を思い出してください」という言葉で伝えたのでしょう。自分に望みがあるとすれば、このイエス様しかない。イエス様、あなただけです。あなただけが私の望みです。それもただ、あなたが私のことを思い出してくださるかにかかっています、と言うのです。
主イエスは彼の心をそのまま受け取り、その願い以上の言葉で返してくださいました。彼の控えめで小さな信仰に対して、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいる」という巨大な恵みが注がれました。彼はその人生の最後に救われました。この人は、クリスチャンとしてその生涯で主の役に立てることは何一つできませんでした。でも、神の救いの御手は、この人にも伸ばされていたのです。主イエスを信じてクリスチャンになることは、難しいことではありません。「今よりも良い人になってから」と考える人もいますが、それだと一生無理です。「もっとわかるようになったら」という理由も、どこまでわかれば一歩踏み出せるのかという疑問もあるわけです。でも、たとえわからないことだらけでも、やめられない罪があっても、そのままで主イエスの元に行き、主イエスを信じるなら「きょう」救われるのです。チャンスは死ぬ間際までありますが、私たちはいつ死ぬかわかりません。今、この救いに至るドアは開いています。だからこの救いが差し出されているこの時に、それを受け取って頂きたいと思います。
主イエス・キリストはご自分を捨て、罪人を救うために来られた王です。私たちは、それぞれにその十字架の前に立っています。あなたはこの十字架の前で、どう応答するでしょうか。極限状態を前にする時、人は選択します。自分の罪深い人生を認めて神に向き直るか、改めて神を拒絶するかの二択です。主イエスの右と左の囚人で、永遠の行き先が変わりました。今日も、それと全く同じ状況があります。この主の十字架を、自分のこととして受け入れた人がクリスチャンです。どれだけ過去に大きな過ちを犯したとしても、十字架で赦されない罪はありません。緊急事態が長引く世界において、私たちも問われています。不安や恐れに取り囲まれている私たちですが、その苦しみを共に受けている救い主がすぐ隣にいることに気付きたいと思います。この十字架にかけられた主イエスの姿に救いを見る時に、あの犯罪人に起きた救いの出来事は、あなたにも起こるのです。