「義に飢え渇く者は幸いです」

 マタイの福音書5章6節

I.「義に飢え渇く」とは

主イエスが山上の説教で語られた「幸いの教え」の4つ目は、「義に飢え渇く者は幸いです」というものです。キリスト者は、単に聖書知識を持つ人ではなく、生ける神との交わりの内に日々生かされている人のことです。嬉しいことや喜ばしいことがあると、神様に感謝します。また何か問題が起こった時も、その背後に神の語りかけを覚え、「主はこれを通して何を語ろうとしているのだろう?」と考え、祈ります。このように主の前でふさわしく生きようと願い、神との生きた交わりを持った状態、それが「義」と言えるでしょう。

この世界は罪から生じた問題で溢れ、自分の内にも「したいと思う善を行えず、したくない悪を行ってしまう(ロマ7:19)」姿があります。だからこそ、キリスト者は必然的に義に飢え渇く者となるのでしょう。神の前にきよくありたい、罪に冒された肉から解放されたい。このような願いを持ち、自力で頑張るのではなく、主に助けを求める。それが「義に飢え渇く者」の姿でしょう。

クリスチャンはキリストの贖いによって赦され、義と認められます。真に救われた人は、主の愛に応答したい願いが沸き起こってきます。これからはもう主を悲しませずに、むしろ喜ばせる生き方がしたい。そんな願いが、義に飢え渇く人にはあります。私たちの体を考えても、食欲不振は不調を訴えるサインでしょう。それと同じく、義への飢え渇きは霊的健康度を測るバロメーターです。私たちが神以外のもの、この世の何かで自分を満たそうとする時、義に飢え渇く感覚は薄くなっていきます。私たちは普段何を求め、何に心を向けているでしょうか。

 

 

II. 真に渇きを癒すもの

 ヨハネの福音書4章に記される「サマリアの女」のエピソードを思い出します。主イエスは彼女の魂の渇きをご存知でした。彼女は男性に満足を求め、愛に飢えていたように思われます。主イエスは、そんな彼女に「わたしの与える水は決して渇くことなく、永遠のいのちへの水がその心から湧き出てくるようになる」(ヨハネ4:14)と言われたのです。彼女は初め、その言葉の意味がわかりませんでした。水を飲んでもまた渇く、これが常識です。魂の渇きもそれと同じだと考え、自分の心の穴を男性で埋めようとしていました。けれども、主イエスは「根源的な魂の渇きを癒せるのは、この世が与える慰めでは無理なのだ。わたしが与える永遠のいのちしかない」と言われます。

 私たちも大なり小なり、この女性と同じ生き方をして来なかったでしょうか。この世が与える水によって、神の代わりになる「何か」で心を満足させようと。嫌なことがあったら酒を飲んで忘れる。仕事に没頭する。自信が持てなければ、ブランド品で身を固める。スマホのゲームや仮想現実の世界に逃げ込む。皆の前で公然と話せないような密かな楽しみを持っているかもしれません。そのように誰も見ていない時、一人でいる時に、隠れて飲みにいく水がないでしょうか。

 その水の中には、別に無害で正当と言えるものもあるかもしれません。ただ、主への飢え渇きを鈍らせるものもあるかもしれません。今の時代だと、例えばスマホを見る時間が長くなり、神との交わりの時を失うかもしれません。この世はあの手この手で次々と、私たちを満足させる水を差し出してきます。でも、それをいくら飲んだとしても、根源的な魂の渇きは決して癒やされません。一方、この世の何をもってしても満たせない魂の穴を、主イエスは満たして下さるのです。

Ⅲ. 義を求め続ける姿

 また、義に飢え渇いている人は、地上では常に義を追い求め続ける成長過程にある人でしょう。主イエスは「正しく生きる人は幸い」とは言われずに、義に飢え渇いている人、義を追い求め続けている人こそが幸いだと言われました。

 使徒パウロもまた次のように記しました。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです」(ピリピ3:12-14)。パウロは初代教会のリーダーでしたが、彼自身の自己認識は、走るべき道のりの途上にいるという認識でした。賞をもらうために走るランナーのように、救いの完成を目指して、義において進歩し続けていたのです。そのような意識を持てるかは別として、私たちも同じでしょう。それぞれの成長段階は違いますが、今達している所を基準に、さらなる霊的な高嶺を目指して歩みたいと思います。この義に関して、地上の人生では死ぬまで前進することができます。

Ⅳ. 終末における満たし

 そうして、やがて終わりの日に神の前に出る時、完全な満たしを頂く約束があります。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から 涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(黙7:16-17)。その時私たちは、完全に飢え渇きが満たされ、涙もぬぐいさられ、いのちの水の泉に導かれていきます。

 この世は天国ではなく、神の国の前味を味わうのみです。しかしやがて終わりの時には、この地上で味わったどんなものより素晴らしい、完全な癒やしと慰めが与えられます。それはどれほど幸いで、喜びと栄光に満ちたものでしょうか。私たちはそんな希望を抱きながら、義に飢え渇くものとして今を生きるのです。

 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは、今も後も、主がその飢え渇きを満たして下さるからです。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)と主は言われました。この決して渇くことのない水は、喜ばしいことに、求めるならば誰にでも与えられる恵みとして差し出されています。

 主イエスは「神の国とその義とをまず求めよ」(マタイ6:33)と優先順位を語られました。私たちの生活は今、何で満たされているでしょう。私たちの魂を本当に満たせるのは、生ける神ご自身だけです。だからこそ意志を働かせて、日々自分の求める対象を変えていきたいと思います。この世の与える満足ではなく、主の喜ばれることを、主ご自身を選んでいく。その時、私たちの心の空洞が満たされ、主の安息の内に安らぐことができるはずです。