主が山上の説教の冒頭で語られた「幸いの教え」も後半に入ります。その前半の幸い(心の貧しい者・悲しむ者・柔和な者・義に飢え渇く者)は、おもに神との関係についてキリスト者の姿勢を描き出しました。これらの神との関係で満ち足りる祝福は、人に向かって流れていく。今回はその一つ「あわれみ深い者の幸い」について考えたいと思います。
Ⅰ.「あわれみ深い」とは
この言葉は、他のものよりもしっくり来る感じがするかもしれません。「あわれみ深くて情にもろい人・世話好きな人・面倒見の良い人は人の心をつかみ、人望を得る」のだというように。けれども、主の語られた幸いは生来の性格から来るものではないことを思い出したいと思います。だからキリスト者であれば、どんな気質・性格の人でもあわれみ深くなっていくはずです。その「あわれみ深さ」は、単なる同情心や義理人情とは次元が違います。元々、涙もろい人や熱い人もいますが、ここで言われるのは御霊がもたらす性格です。
外国人から見ると、日本人は親切で礼儀正しいと言われることがあります。ただ、身内には優しいけれど、「外の人」には冷たく、情け容赦ない面もあったりします。道徳としてのあわれみは自分本位な所から抜けきれません。また、誰かを赦すというテーマは人気がなく、むしろ復讐劇が好まれます。一方、聖書の語るあわれみ深さとは、感動的なドラマを見て涙を流す程度のものではありません。初めはかわいそうに思って優しく関わろうとしても、相手の反応次第ですぐに心が冷める。生まれつきの自分のあわれみには限度があります。
Ⅱ.行動を伴う同情
では、聖書で言われる「あわれみ深さ」とは何でしょうか。まず、それは神のご性質として記されます。主イエスは群衆を見て、羊飼いのいない羊のように思われ、深く憐れまれました。その主イエスがあわれみを教えた2つの譬えを考えたいと思います。
初めは、有名な「よきサマリア人の譬え」(ルカ10:25-37)です。ある人が旅の途中、強盗に襲われました。彼は身ぐるみはがされ、半殺しにされてしまいます。そこをたまたま祭司やレビ人が通りがかった。でも彼らは倒れた人を見ても、目を背けて道の反対側を通り過ぎていきました。ところが、次にやってきたサマリヤ人が手を差し伸べました。民族的には犬猿の仲であったサマリヤ人ですが、その倒れたユダヤ人をかわいそうに思ったのです。彼は自分の持てるあらゆるものを用いて旅人を救おうとしました。それは一瞬感傷に浸って終わりではなく、実際の行動に結びつくものでした。
この話を語った後、主イエスは律法学者に問いかけました。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」。「隣人は誰か」ではなく「誰が隣人になったか」といわれるのです。今助けが必要な人の隣人になる、それがあわれみ・隣人愛に生きることだというのです。「あなたも行って同じようにしなさい」と言われた律法学者は、それなりに「あわれみ深く生きている」と思っていたかもしれません。でも主の示された基準の高さに、自らの愛の貧しさに気付かされたのではないでしょうか。
文字通り倒れていなくても、助けを必要としている人と、私たちは日々出会います。その時、私たちはあわれみの心を持って関わるでしょうか。それとも目を背け、道の反対側を歩くでしょうか。もし私たち全員があわれみ深いなら、この社会にはいじめも争いも、さげすみも不正もなくなるでしょう。でも、私たち自身の中にそのあわれみの貧しさという問題がある。だからこそ、その自分が主のあわれみを受けていることを思い返したい。実は、私たちもこの旅人と同じでした。自らの罪に囚われ、悪魔に惑わされ、道端で倒れて助けを待つしかなかった。けれどもそんな私達のために、主イエスが来てくださったのです。
自分のあわれみの貧しさを申し訳なく思いつつも、なおその自分が神のあわれみに生かされていることを思うのです。キリスト者は、自分がどれほどあわれみを受けているか、あわれみの価値を知っている人でしょう。あわれみを持ち合わせていないこの自分のために、主イエスが十字架にかかられた。私たちは主のあわれみの中に生かされる先に、あわれみ深い者として造り変えられていくのです。
Ⅲ.赦された者として赦す
次に考えたいのは「赦さなかったしもべの譬え」(マタイ18:23-35)です。そこでは王に対して1万タラント(約6000億円相当)の負債を抱えたしもべが出てきます。何をしてもこの莫大な借金を返すことはできないので、主人は彼に全てを売り払って返済するように命じます。家来は「もう少し待ってください」と懇願しますが、待っているのは破滅だけです。しかし、何と「主人はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった」というのです。この決断は主人にとっては大損でしたが、しもべにとっては信じられない恵みの出来事になりました。
1万タラントの負債は、私たちの罪の大きさを表しています。もう負債だらけで、神の赦しがなければ絶望しかなかった。けれども、あわれみ深い神は、私たちをそこから救おうと身を乗り出されたのです。もちろん赦しはタダじゃありません。その途方もない負債は、主イエスが実際に引き受けて肩代わりして下さった。ですから、私たちの救いは決して軽いものでなく、御子のいのちがかかっているのです。
そんな私たちならば、他の人にはどう関わるべきなのか。それが後半に書かれています。赦されたしもべが晴れ晴れと出て行くと、ある見知った顔に出会いました。そうして百デナリ(100万円相当)貸していたことを思い出すんです。このしもべは、自分がしたような仲間の願いを聞き入れず、牢屋に放り込みました。
事の次第を聞いた主人は悲しみ、怒りました。「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか」。これは裏を返せば、あわれみ深い取り扱いを受けたしもべは、あわれみ深く生きるように招かれていたということです。しかし、彼はその受けたあわれみの価値を知らなかったのです。
あわれみ深くなることは、気合や決心の問題ではありません。神のあわれみを真に味わうなら、私たちはあわれみ深くならない訳にはいかないのです。誰かから損害を受けたとして、それと比べものにならない赦しを、まず自分が受けている。自分の破産状態を知り、もうどうにもならないと絶望していた所、ありえないあわれみを受けた。その重みを知ることによってのみ、赦す者とされるのです。胸の中でいつまでも恨みを温めて、復讐の機会を狙い続けることもまた、苦しい破滅の人生となります。キリストは私たちをそんな赦せない自分を救うためにも、十字架にかかられました。このあわれみを知らされる先に、私たちがあわれみに生きる道が開かれるのです。
あわれみ深い人は神のあわれみをすでに受けているし、これからも受けることになります。赦す用意ができている人ほど、赦されていることをはっきり証明するものもありません。神のあわれみは、私たち人間より先にあります。そして、やがての終わりの日には、あわれみ深い者が主から憐れんで頂ける約束があるのです。
主のあわれみを知らされた者は、隣人に対してもあわれみ深い者とされていきます。主は私たちの日々の中で、倒れている人々との出会いを備えられます。その時、私たちは道の反対側を通るでしょうか。かつてはそれが普通でした。ただ、主からして頂いたあわれみを思い起こしたいのです。それぞれの歩む道で、出会う人は違います。ただ、今私たちが関わるようにと召された一人ひとりに、主から頂いた恵みのバトンをつなぎ、あわれみ深く関わることができるように、祈る所から始めたいと思います。