マタイの福音書5章 10〜12 節
山上の説教の入口にある「幸いの教え」の最後に来るのは、この言葉です。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」ここに来て思いがけないテーマが来た感じがします。他の幸いならば「これは私が求める所だ」と頷いたとしても、ここでためらってしまうかもしれません。
信仰ゆえの迫害は、今も昔も珍しいものではありません。2年前の世界福音同盟の報告では、世界中のクリスチャンの7人に1人が、厳しい迫害にさらされているといいます。かつてこの国でも、多くのキリシタンたちが迫害され、殺されました。一方、現代日本はどうでしょうか。信教の自由が保証され、クリスチャンだと名乗っても逮捕されたり、殺されることはありません。自由に主を信じ伝道できるのは、恵みとして感謝すべきことです。ただ、「今は全く迫害がない」と果たして言い切れるでしょうか。パウロはテモテにこう記しました。「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」(Ⅱテモテ3:12)。キリストを信じるがゆえに苦しんだ経験が、これまであったでしょうか。
Ⅰ. 義のための迫害 v10-11
なぜ主の弟子に対する迫害が起こるのでしょうか。ある人は「迫害とは、2つの相容れない価値観の衝突だ」と語りましたが、それは事の本質を言い当てています。この世は、神の国の幸いを理解できません。だから、キリストとその弟子を受け入れないのは自然なことです。
ただ、私たちは戸惑います。このように考えたことはないでしょうか。主イエスと出会って、自分の人生は変えられた。このお方を知らない人生には後戻りできない。ただ、これほど素晴らしい福音を、なぜみんな受け入れないのだろう。むしろ誤解され、偏見の目で見られ、無関心の内に見向きもされないのは、一体なぜだろう。むしろ、愛に生きようとするクリスチャンがなぜ迫害されなければならないのか…。
主イエスほど親切で神の愛を現した方はいませんでした。にもかかわらず、人々はキリストを拒んで十字架にかけました。その現実を思う時に、この世がいかに神に背いているかを知らされます。2000年経った今も、その本質は変わっていない。今の日本ではキリスト教のイメージは悪くないかもしれない。ただ、私たちが本気で主のみことばに従おうとする時、反対が起こることがあるでしょう。
主イエスは弟子たちに代価を払う覚悟を求めました。だからキリストを信じて従う先にある戦いは特別ではなく、いずれ降りかかるものと予期しておく必要があります。もし戦いを経験しない信仰生活があるならば、それはどこかいびつです。苦しみの理解が欠けた信仰は、状況次第でどうにでもなる脆さを抱えています。
ただ、主イエスは、単に「迫害される者は幸い」とは言われませんでした。そこには「義のために」という理由が前提とされています。自らの失敗や愚かさのために悪く言われるのは、ここでいう迫害ではありません。義のための迫害とは、主イエスを信じて従うからこその迫害です。
また、11節には「ありもしないことで悪口を浴びせる」とあります。事実無根の悪い噂が立ち、誤解され、非難される時、私達はどうするでしょう。焦りやもどかしさを感じながら、何とかその苦しみから逃れようとするかもしれない。けれども、主イエスはその事態を喜べというのです。
Ⅱ. 天における報い v12
なぜ迫害を喜べるのでしょうか。それは義のための迫害を受けている事実によって、自分がもはや主の側にいて、神の国に生きていることを証明してくれるからです。キリスト者はただ苦しみ自体を喜ぶ変人ではありません。ただ我慢するだけではなく、神との関係でその迫害を捉えるんです。
この幸いの理由は「天の御国はその人たちのものだから」で、これは最初の「心の貧しい者の幸い」の理由と同じです。最初にこの理由が挙げられたのは、自分が空っぽなので、上からの恵みが注がれることでした。そして、その延長線上に「義のための迫害」があるので、主のために従い抜く信仰告白の勇気も、主との交わりの内に恵みとして与えられるものでしょう。義のための迫害は、自分が神の国に生きていること、天に国籍があることを明らかにします。本物だから迫害されます。いつも妥協的で中途半端ならば、大して影響力もないので放って置かれます。けれども、私たちがこの世と異質なものとされればされるほど、世は迫害してくる。その事実が、私たちの所属や行先が明らかにするのです。
主はこの幸いを伝える中で、「天においてあなたがたの報いは大きい」と言われます。救いは恵みの賜物ですが、一方で聖書では神の報いを期待して生きることも励まされています。主は私たちの日々の生き方をご覧になり、ちゃんと報いを用意して下さるんです。小さなことでも、報われない労苦はない。だから、義のために迫害を受ける時、確かに天には宝が積まれていることを思い出すのです。
また、主イエスは12節で、「あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害した」とも言われます。主につく者は、いつの時代も反対を経験します。使徒の働き5章では、使徒たちが捕えられて裁判を受け、脅されて鞭打たれました。その時、使徒たちはどうしたか。「御名のために辱められるに値する者とされたことを喜びながら、最高法院から出て行った」(使徒5:41)とあります。かつて主イエスを見捨てて逃げた弟子たちが、ここでキリストのための苦しみを喜ぶ者とされているのです。
私たちは信仰ゆえの戦いを経験する時、どう向き合うでしょうか。迫害する相手を恨み、憂鬱になるかもしれません。けれども、それはただ歯を食いしばって耐えるだけのものではない。むしろ主は、「そこにある喜びを見出せ」と言われるのです。神の国の視点からすると、その事態は全く違った見方ができるものなのです。神の国は、今迫害を受けているあなたのものであり、天には宝が積まれている。だから喜べ、喜び踊りなさいという。戦いを通されるほど真剣に主の弟子として生きる時、そこに本当の喜びを知らされていくのです。
主イエスを信じるゆえに戦いを経験している人は、神の国に生きています。「現代は迫害がなくて楽だ」と本当に言えるのか、また言うべきなのか、改めて考えたいと思います。むしろ私たちは厳かに、主イエスからこの幸いにも招かれています。主イエスの地上の歩みには絶えず困難がありました。それに比べると、私たちの苦しみはほんの小さなものですが、主の後についていく先に、私たちもキリストの苦しみの欠けた所を満たすように召されています。義のために迫害される者を、主は決して見捨てられない。むしろ、それによって、神の恵み深さを一層深く知らされていく。そのことを覚え、主の御足を辿る先に用意された幸いを味わい知る者とされたいと願います。