「平和を作る者は幸いです」
マタイの福音書5章9節

 大学生の頃、「平和学」の授業を取ったことがあります。そこでは、単に戦争がない状態を「平和」とは言わないことが教えられました。学校のクラスに喩えれば、1組では鬼のような先生がいつも厳しく目を光らせて生徒の言動を見張っていて、みな大人しく従っています。ただ、これでは表面的には落ち着いていても、互いの心の内にはわだかまりが残っているかもしれません。一方の2組では、クラス皆が仲良く、互いに信頼の絆が結ばれている。この2つのクラスは、どちらも外から見れば落ち着いて見えますが、その内実は大きく違うでしょう。そのように、ただ表面を飾るだけでなく、中身のある平和を実現するにはどうすればいいかを考えるのが、その授業のテーマでした。

 主イエスは「平和をつくる者は幸いです」と言われました。「平和」という言葉を、私たちは日常的に使います。とりわけ痛ましい紛争を知らされる度に、「今こそ平和が必要だ」と感じる方も少なくないでしょう。ただ、各国の思惑や利害関係を垣間見る中で、平和づくりは簡単ではないことも思います。この平和に関して、聖書は何を語っているでしょうか。

 

Ⅰ. 「平和」をめぐる問い

 「平和」という言葉を辞書で調べると、「心配や揉め事がなく、和やかな状態」と書かれています。ただ、この「平和」理解はどうも自己流になりがちではないでしょうか。戦争をしかける側も平和を語ります。人類の歴史は「闘争の歴史」とも言われ、歴史を学ぶと人間はほとんどいつも争っていることに気づかされます。「平和=一時的な休戦」に過ぎない地上の現実があります。これは人類一般の話だけでなく、自らの心を顧みてもそうではないでしょうか。誰かからぞんざいな扱いを受けると不愉快になり、敵意が芽生えます。自分の弱さには甘いけれど、他人の欠点には度量が狭い。ひどいことをされた過去を思えば、簡単には人を赦せない。そのように、いつも自分を中心にしか見られない現実があります。

 私たちは平和を心の深い所で求めつつも、敵意や憎しみを抱く矛盾を抱えています。だから、平和を実現するために、ただ反戦運動をすれば済む話でもないでしょう。だからこそ、まず私たちの内側にある利己的な思いやわがままな心、つまり罪の問題が解決されなければなりません。その解決をもたらすために、神は私たちに平和の福音を届けて下さいました。キリストをこの世に送り、その十字架によって私たちの罪を贖うことで、神との和解の道を開いて下さいました(コロ1:19-20)。この世が与える平安は一時的で不確かなものですが、主イエスは世が与えることのできない平安を私たちに残して下さいました。聖霊も、私たちの内に平和を造り出して下さいます(ガラ5:22)。

 一方、聖書では、主イエスがこの世の平和に対して対決を挑む場面も出てきます。神殿で商売をする人々の日常を壊し、パリサイ人とも対決しました。主が私たちに下さる平和は、安易な平和主義ではないでしょう。ヘブル人の手紙12章14節では「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい」と言われています。平和とともに、聖さが追い求められるべきだと言われます。神のみこころを無視して、何でもよしとすることが聖書の語る平和ではありません。また、単なる馴れ合いや、ただ平穏無事を願う心が平和を造り出す訳ではない。預言者エレミヤが対決を迫られたのは、偽預言者が語る「平和」のメッセージでした(エレ6:14)。

Ⅱ. 平和をつくる者たち

 むしろ、キリストの平和の福音の中にこそ、かつての敵同士を一つにする鍵が隠されています。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し…十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました」(エペソ2:14-16)。この前提にあるのは、常に世界には分断・壁・敵意があるということです。昔から人類はそうやって、敵を作ることで自分の安心や居場所を守ろうとしてきました。けれども、キリストはその敵意を自ら吸収し、ご自身が死ぬことで神のさばきを引き受けました。それによって、罪に対する神の敵意も消えました。主イエスの十字架の死は、神と人との和解をもたらし、人と人の間の敵意を終わらせるためのものでした。

 この福音を受け取った私たちは、平和をつくる者とされます。単に「平和を好む」だけでなく、積極的に「平和をつくる」生き方に招かれています。ただ、それが実際にはどれだけ困難で、大変だろうかと思います。もし「争いを好まない者は幸いだ」という程度なら楽でした。けれども主イエスは、「争いを避けて通るのではなく、平和をつくる者こそが幸いなのだ。そして、あなたがたはそのようになれる」と言うのです。私たち自身が平和の源ではありません。神が私たちを通して平和をつくって下さる。この言葉に生き得ない私たちを救うために、主は十字架にかかられました。そうして私たちを神との平和に生かし、人と人との間に平和をつくる者とされるのです。その神の恵みの通り良き管とされる中、平和をつくる道が開かれます。

 神の子とされた私たちは、神が平和をもたらす器として召されています。平和をつくるライフスタイルを、少しずつでも身に着けていきたいと思います。何を話すかという時も、悪意に基づいた噂話ではなく、人を励まし慰める、塩味の聞いた言葉を選び取りたい。また、自分が悪かったことがあれば謝り、相手の心を気遣うのです。そのように場面ごとに、平和をつくるか・つくらないかという岐路に立たされ、そこで「平和をつくるとは何か」を考え、それを選び取っていくのです。

 今置かれた所で、平和をつくるために何ができるでしょうか。私たちの平和づくりのわざは種まきのように、地道なものなのでしょう。「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです」(ヤコブ3:18)。神が置かれた所で、争いの種でなく、平和の種をまき続ける。そのように、主は私たちを平和の器として用いようとされます。私たちの小さな言葉とわざが、主の平和をつくるものとされていきますように。