「われは罪の赦しを信ず」  

第二コリント5章11節-6章2節

あるクリスチャンの集会で、「どうして罪が赦される必要があると思いますか?」と講師が問いかけました。多く返ってきたのは、「天国に行くため」という答でした。それは間違っていませんが、あくまで副次的なものです。聖書で言う罪とは、私たちと神との関係が断絶している状態です。罪の赦しを必要とする根本的な理由は、私たちが神ご自身を必要としているからです。罪の赦しは、ただ天国に行くための手段でも、また私たちの罪悪感が取り除かれるための癒やしのセラピーでもない。罪の赦しとは、神との関係が回復することです。私たちの罪が神との間に壁となっており、あらゆる問題の根がここにあります。しかし神はこの壁を打ち壊すため、十字架によって神と和解する道を開いて下さいました。

Ⅰ. 十字架は何を実現したのか
伝道者パウロはかつて教会を荒らし回った急先鋒でしたが、復活のキリストと出会いました。一番変わったのは、十字架の意味を理解したことです。確かに、十字架はのろいの象徴ですが、実はそれは自分の罪が招いたもので、本来自分が受けるべき罰を、主イエスが代わりに受けて下さった事を知り、その愛に捕らえられたのです。「私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである」(14節)。アダムが罪人の代表となったように、キリストはその罪人の代表として死んで下さいました。

また、「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました」(21節)。罪なきキリストが、私たちのために罪とそののろいを一身に引き受けて下さったのです。本来、裁判において冤罪でさばかれることはあってはなりません。けれども、神は私たちを救うために、神は私たちの罪をキリストに移されました。使徒信条を唱える度に、この十字架を思い起こすのです。キリストは十字架上で父なる神と完全に切り離され、私たちの罪と一体となられました。史上最悪の刑罰である十字架は、受刑者の肉を裂き、その瞬間瞬間において激痛をもたらします。しかしそれ以上に、主イエスは神と切り離された暗闇に圧倒され、肉体的な痛みに気づいておられなかったのではないか…と言われるほどです。主イエスは十字架の上で、まさに地獄におられました。神の恵みと臨在を全く失い、あらゆる祝福から完全に切り離された。それは私たちが、いつの日か神のみ顔を仰ぎ見ることができるように、私たちのためにのろいとなって下さったのです。

また、十字架は罪を帳消しにするだけに留まりません。キリストの義が、私たちのものであるかのように見なされるのです(21節)。キリストが私たちの立場に身を置いて、完全な生涯を歩んで下さった。真っ黒な私たちの罪と、真っ白なキリストの義を取り替えて下さる。これをルターは「喜ばしい交換」と言いました。キリストの十字架は、私たちに到底償えないマイナスをゼロにするだけでなく、そこに限りないプラスを加えて下さいます。私たちはキリストの義を頂くことで、罪ゆえに断絶した神との交わりへと招かれています。それは神が私たちの罪を大目に見るとか、水に流すことではありません。また、私たちが自力で悔い改めることで、赦しを勝ち取るのでもない。赦しの恵みは、キリストからあなたに差し出された純粋な愛の贈り物です。

これは私たちの中で完結せず、そこから神との和解した新しい生き方が始まります。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させました(18節)。筋から言えば、神から離れた私たちに非があり、その債を何とかしなければなりませんでした。でも、生まれながらの私たちは、神の元に帰ろうなんて思いません。むしろ自分の正しいことを主張し、期待に沿わない事が起こると、まるで責任は全部神にあるかのような考え方をしてしまいます。このような状態で和解が成立しようがありません。しかし、あろうことか神から和解を申し出て、その手はずを全て整えて下さいました。被害者である神が、加害者の私たちのために償いを用意して、和解を願って下さいました。和解は一方通行では成立せず、贈り物を押し付けるだけでは、壊れた関係は修復されません。私たちに問われているのは、この恵みを感謝とともに受け取るかどうかです。

Ⅱ. 新しく造られた者の生き方
この箇所には「罪の赦し」という言葉は出てきませんが、その代わりに「和解」という言葉が繰り返されます。罪が関係の断絶を表すならば、愛は関係を回復し、共に生きる親しい交わりを造り出します。具体的な応答は様々でしょうが、キリストの愛を知って神と和解した人は、もはや自分のためではなく、このお方のために生きるようになります(15節)。ただ、「もはや自分のためにではなく」とも言われるのは、私たちが古い生き方に逆戻りすることがあり得るからでしょう。救われても自分の弱さに引っ張られ、かつての罪の生き方に逆戻りしてしまうことがあります。あるいは、どこか燻っていて、自分を完全に主に明け渡せないこともある。けれども、十字架の事実は変わりません。私たちの状態がどうであれ、キリストの愛が取り囲んでいます。

キリストの愛を知った人は、「新しく造られた者」と言われています。だからといって、全く罪を犯さなくなるわけではありません。けれども、自分の罪に気付かされ、悔い改めを願うようになり、帰る場所を知っている。そして自分の罪を知れば知るほど、キリストの十字架の愛の深さ、罪の赦しのありがたさを知るのです。

先に神と和解させられた私たちには、和解の務めが与えられています(18節)。その人はキリストの使節とされています。使節は送り出された国の代表として、その国の意向を相手の国に伝える使命を帯びています。それと同様にクリスチャンたちは神様から和解の福音を委ねられ、神の国の大使として、まだ神と和解していない人々に神の意向を伝えるのです。

クリスチャンは罪を赦され、キリストの義を頂き、和解の務めに生きる使者とされています。かつては、自分の生活から神を締め出していました。でも、神と和解させられた今、そこに主をお招きするのです。あなたの歩みの中で、いまだに神を遠ざけている領域はないでしょうか。神の恵みを無駄にしてはいけません(6章1節)。もし罪に気付かされるならば、その都度十字架の元へ帰り、方向転換したいと思います。今は恵みの時、今は救いの日です。罪の赦しの恵みを改めて受け取り、神とともに生きる人生へと踏み出して参りましょう。