「我はからだのよみがえりを信ず」

第一コリント15章35-58節

 私が教会の葬儀に初めて出席したのは、小学生の頃に祖父を天に送った時のことです。葬儀の最中、悲しみで心が一杯になっていましたが、教会のある方がこのように励まして下さいました。「おじいちゃんは神様の元に行ったのよ。だから、あなたがイエス様を信じていれば、また天国で会えるよ。」それは幼い自分にもわかる慰めの言葉でした。ああ、そうなのか。おじいちゃんは神様の元にいる。死んで終わりではないんだ―。寂しさの中で、その言葉によって希望の光が差し込んだ気がしました。

 教会では週ごとに、この復活の希望を語り継いでいます。キリストがよみがえられた日曜日毎に礼拝を守り、使徒信条において「からだのよみがえりを信ず」と告白します。この言葉は、死で私たちの歩みが終わるのではないことを教えています。世の終わりにおいて、復活の希望があり、その時には「新しいからだ」が与えられるというのです。

Ⅰ. からだのよみがえりの秘密

 パウロはコリント人の手紙第一15章で、この復活というテーマを記します。パウロが長々と論じる背後には、教会の中で「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」(35)というように、復活を否定する人々がいたからです。パウロはこの声に断固とした否を突きつけます。孔子や釈迦は死後の世界について尋ねられた時、はっきりと答えなかったそうですが、それは人間の限界をわきまえた姿でもあったでしょう。かたや聖書は、真っ向から死後の世界を説き、現在の生き方を励ますものとして語ります。それはこの復活が、キリスト教信仰の中心だからです。

 復活というテーマは、いつの時代もつまづきの石です。パウロがコリントの近くのアテネで伝道した時も、復活の話をしたら人々に笑われました。当時のギリシャで、肉体は悪だと思われていました。だから人が死ぬ時、からだの牢獄から魂が解き放たれて自由になると考えられていました。この霊魂不滅という発想は、現代にもあります。亡くなった人に話しかけたり、先祖の霊が近くにいると信じられています。でも、聖書の語る死後の理解は、それと違います。クリスチャンは、写真や遺体や骨に話しかけたりはしません。では、今や亡くなった人は消えてしまったのか。そうではありません。キリストに結ばれた魂は、死後、決してさまようのではなく、キリストの元へ迎えられるのです。それだけではありません。終わりの日に、そのからだも新しくされます。目の前で弱り、死んで焼かれる体を、また復活すると期待するのは、人間の理性では不可能です。しかし、キリストを復活させた神の力を信じる時、それも主にあって可能となります。

 では、そのからだの復活とはどのようなものでしょうか。パウロは種まきにたとえて説明します。「また、あなたが蒔くものは、後にできるからだではなく、麦であれ、そのほかの穀物であれ、ただの種粒です。しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります」(37-38節)。種が地に蒔かれると土に埋もれ、私たちの目には一瞬にして見えなくなります。また土の中でも形を失います。しかし、そこに新しい芽生えがあります。そこから生まれてくるのは、種とは全く違う形を持った植物です。それと同じように、私たちの今のからだが朽ち果てても、将来のからだは栄光に満ちたものになるのです。

. 新しく与えられるからだ

 その復活の時の変化が、畳み掛けるように述べられます。「朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされる」(42-44)。私たちのからだはやがて朽ちるものですが、復活の時には朽ちないからだになります。それはホラー映画のゾンビのようなものではなく、全く新しいからだが与えられるのです。「からだのよみがえり」の約束は、体に弱さを覚える私たちにとって良い知らせです。年をとるにつれ、以前はできたことができなくなり、心もとなく思うかもしれません。聖書は私たちの肉体の限界を認めています。でも、そこで終わりではなく、たとえこの体が朽ち果てても、地上の人生は新しい世界の歩みにつながっています。

 また、「蒔かれ、よみがえらされ」という言葉が繰り返されます。それは、この復活が私たちの力ではなく、神が一人ひとりの体が新しく創造して下さる約束です。一方で、地上のからだはやがて朽ちるものですが、やはり神の賜物です。だから、今のからだをも大事にしたいのです。体の不自由や弱さに悩まされることもありますが、なおその体を神から与えられた尊いものとして見る。そんな優しい眼差しを自分にも、他人にも向けるのです。もちろん、いつか死によって終りが来る制約もあります。でも、やがて与えられる天上の体は朽ちません。50節によれば、神の国を受け継ぐことができる。

 教会の葬儀では故人の亡骸を丁寧に葬ります。そして火葬される瞬間は、それまで慣れ親しんだ人の姿が見られなくなります。それは朽ちるべきからだが蒔かれる時で、次にお互い会えるのは、天のからだが与えられる時です。その時には、病気も痛みもありません。新しく与えられるからだは、栄光と力に満ちた、御霊のからだです。愛する人達と天国で再会し、永遠に神との交わりの中に生きる。一体どんなからだになるのか…と楽しみになります。

 また45節以降、最初のアダムと最後のアダム(キリスト)が対比されています。生まれつきの私たちは皆アダムに属し、その弱さや罪の性質を受け継いでいます。一方、キリストに属する人は罪贖われ、全く違う性質を帯びている。20-23節でも植物の喩えが使われます。初穂とはその年の収穫の最初の実りで、初穂の後に豊かな収穫が待っています。つまり、キリストが初穂として復活したならば、その後にキリストに連なる人たちも復活するというのです。それは世の終わりのラッパが鳴り渡る時のことです(52)。キリストが再びこの世界に来られる終わりの時に、死は勝利に飲み込まれます。救いが私たちの肉体にまで及び、救いが完成します。だから地上の別れを前にする時、主にある再会の時が来ることを期待したいのです。

 人生の終わりには死が待ち受けており、その恐怖はいつも暗い影を落としています。でも聖書によれば、死は終わりではなくこの新しいいのちの始まりです。もしこの死を恐れる必要がなくなるならば、死を超えた先をむしろ楽しみにできるならば、地上の人生の長さに関わらず、私たちは人生を本当の意味で喜び、大胆に挑戦する生き方を始められるのではないでしょうか。「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」(58)。多くの弱さ、不自由さ、あるいは病に苦しむ体です。それにもかかわらず、それも神から与えられた体。地上の生涯を終える時、私たちはこの体をも神にお返しするのです。復活の希望があるからこそ、天の故郷に憧れながら、私たちそれぞれに委ねられた使命を誠実に果たしてまいりましょう。