「われは永遠のいのちを信ず」

黙示録21章1-8節
 

いよいよ使徒信条も最後の所に来ました。「われは永遠のいのちを信ず」とありますが、ここで言われるのは単なる不老不死ではありません。永遠のいのちの本質は、神とキリストを知ることです(ヨハネ17:3)。既に主イエスを信じた人は、今もこのいのちにあずかっており、さらに将来的に完全なものとされます。今回のみことばには、私たちの人生の最終目的地、天国の光景が描かれます。

Ⅰ. 新天新地の光景 v1-3

ヨハネの黙示録が書かれたのは、初代教会への迫害が強まり、教会が試練の中を通されていた時のことです。深い孤独の中にいたヨハネですが、そこで神の幻を見させられ、それを記して苦難の中にある教会を励ますため、この書を著します。ここには現在の試練の意味と、将来私たちに何が待ち受けているかの幻が描かれます。一連の戦いを経た後に現れる新しい天と地は、私たちの住むこの世界とはっきり区別されています(1節)。滅びの象徴とされる海も、もはやありません。この世で猛威を奮うサタンの支配は終わります。

ところで、不老不死は古くから人類の夢とされてきましたが、実際の所、この世界でずっと生き続けたいと思うでしょうか。この世には、罪の結果もたらされた苦しみや涙があります。もちろん、神によって与えられたこの地上の生涯を精一杯生きたいですし、今生かされている意味を考えて前向きに歩みたいと思います。でも、この不安定な世界で永遠に生きたいとは思えない現実もあるのではないでしょうか。仮に、不老不死や死んだら他の何かに生まれ変わることが約束されていても、人の罪の問題が解決されない限り、良い知らせとは言えないのではないでしょうか。

   けれども、神はこの世界をこのまま維持されるのではありません。5節には「見よ。わたしは、すべてを新しくする」とあります。古い世界から新しい世界に、すべてが刷新される。ただ、その新しい世界はこの世界と全く無関係の得体の知れない所ではありません。この世界に入り込んだ罪の影響、不完全な部分が取り除かれて、本来の姿を取り戻した世界が言われているのでしょう。この新天新地において、聖なる都、新しいエルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのだといいます。この新しいエルサレムとは、栄光の姿に変えられた教会を表しています。聖書では神の民が、神の妻や花嫁に喩えられています。ただ、旧約のイスラエルの姿を見ると、神を裏切り他の偶像に浮気して身を落とす姿が描かれます。新約以降の教会もなお途上にあります。けれども、この終わりの日には完全に整えられた美しい姿とされています。

 新しいエルサレムが現れた後は、もはや天と地が重なっています。この新しいエルサレムには神殿がなく、神とキリストご自身の栄光が都を照らしています。いのちの水の川が流れ、川の両岸にはいのちの木が植わっている。それはエデンの園が発展し、都になっているような光景です。もはや、のろわれるものは何もない。そこで神の民は主に仕え、主のみ顔を仰ぎ見るのです。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。 神は人々とともに住み、人々は神の民となる。 神ご自身が彼らの神として、ともにおられる」(3節)。ここで繰り返されるのは、神がともにおられること。実はこれこそ、聖書全体を貫く契約の成就です。人が神を離れてから、この世界が罪によって歪んでしまいました。けれども神は私たちを諦めず、聖書の歴史を通して「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」という約束を繰り返し語ってきました。そして、この「神がともにおられる」というインマヌエルの約束こそ、私たちに与えられる救いの核心です。もう神との間を隔てるものは何もなく、このお方の元に憩うのです。

Ⅱ. 終わりから現在を見る v4-8

 この世界が新しくなる時こそ、地上で流した私たちの涙が拭われる時です(4節)。この地上では、涙を流さざるを得ない現実があります。「神様、なぜですか?」と問いかけても、答が見つからないこともある。人生の不条理に直面し、戸惑うこともある。悩みはつきません。けれども、私たちが地上で流す涙は、やがて神ご自身によって拭われるのです。以前のものは過ぎ去りますが、それは破局的な終わりではない。主ご自身がねぎらい、慰めて下さるのです。この世はいわば「影の国」であり、私たちが本来生きるべき世界は来るべき新天新地にあります。私達はこの世界でも、色々な喜びや感動を経験します。自然の美しさを見て素晴らしいと思ったり、困難な仕事を成し遂げて達成感を覚える。恋愛や結婚における甘い喜びや、親しい人と一緒に過ごす親密な時を知っています。ただ、それらは地上では不完全なものです。むしろ、それは天にある喜びを移す鏡です。地上で私たちが味わう全ての喜びの完全な姿が、やがて来るべき世にあるのです。この新天新地では地上の悲しみが取り去られ、神様とともに全き安息の内に憩うことができる。地上では旅人であった私たちが、天の故郷を相続する時が来ます。

 この世界を動かしているのは、偶然の力や悪魔の策略ではありません。神がこの歴史を支配しておられます。私たちはその歴史において、キリストが初めに来られた時と、再び来られる時の狭間を生きています。その時に私たちに委ねられている働きは、この地上で神の国を建て上げ、福音を世に伝えていくことです。主はその2つの時の狭間に生きる私たちに、さらに語りかけます。「わたしは渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる」(6節)。いのちの水の泉、それは永遠のいのちの象徴です。主はそれを、求める者には誰にでも与えて下さいます。

主はその地上に生きる私たちに、この終わりを望み見て生きるように招かれます。7節では「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる」とあります。この「勝利を得る」という言葉は黙示録で何度も出てきますが、障害物を乗り越えて打ち勝つニュアンスがあります。キリスト者は世にあって患難を通されます。圧倒的な敗北を喫することさえあります。でも、勇気を出すのです。主がすでに勝利しておられるからです。私たちの故郷は地上にはない。でも、やがて家に帰る日が来る。終わりの日に、天の故郷を相続するのです。いのちの書にその名が記され、最終的にキリストと共に世を治める者とされる。それは大きな喜びであり、安息の時でしょう。私たちはその日を待ち望みながら、地上を旅する者です。地上の問題解決は新天新地にあり、そこで創造の祝福が完全に回復されます。この世は永遠には続かず、キリストの再臨によって新しくされます。私たちは地上にあって、寄留者であり旅人です。この新天新地の幻を共に味わいながら、地上の日々を無駄にせずに、堅く立って主のわざに励んでまいりましょう。