「交わりに生きる幸い」  

詩篇133篇,ヨハネ17章20-23節

今年の年間テーマは「交わりの再建」ですが、交わりに関してそれぞれに思い出があるでしょう。それが真実な交わりであるならば、いつも互いを全肯定するというよりも、みことばの基準によって軌道修正を迫られることがあります。その交わりに生かされる中で成長させられ、互いの魂を気にかけ、牧会し合う営みがなされていく。今回はこの年間聖句から、教会の交わりの成熟を共に考えたいと思います。

. 一つになってともに生きる幸い (133)

「見よ。なんという幸せ、なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって、ともに生きることは」(詩篇133:1)。キリストを信じることは、教会の交わりに加えられることと切り離せません。2,3節では、その交わりの祝福が2つのイメージで表現されます。まず、大祭司アロンの頭に注がれる尊い油です(2節)。ここには頭に注がれた油がひげを伝い、全身の衣に滴る様子が見られます。大祭司の衣には宝石が12個ついており、そこにはイスラエルの十二部族の名前が刻まれていました。この油はこの宝石にも滴り、それは神の民全体に祝福が広がる象徴ともいえます。アロンがキリストのひな形であることを考えると、新約の時代に生きる私たちにとっては、キリストの恵みが私たちの交わりを覆っているともいえます。

また、「それはまたヘルモンから、シオンの山々に降りる露のようだ」(3節)とも言われます。「露」は、聖書の中で乾いた地を潤す恵みの象徴です。雨が全く降らないイスラエルの乾季において、露は貴重な水源でした。また、イスラエルでは乾燥地帯も広がっていますが、それとは対照的に、ヘルモン山周辺には水が豊かにあります。

 これらの油と露の喩えに共通するのは、「上から下にもたらされる祝福」です。原文を見ると、「〜の上に下る」というフレーズが3回繰り返され、交わりの恵みが天からの贈り物であることが強調されています。兄弟たちの交わりの恵みは、神から与えられた贈り物であり、そこには魂の渇きを満たす「とこしえのいのちの祝福」がある。共に、天国での前味ともいえる交わりの恵みを、味わい続ける私たちでありたいと思います。

. 一つとなる途上の私たち(ヨハネ17:20-23

 一方で、この地上での交わりはいつも心地よいものとは限りません。元々違いがあるにも関わらず、一つに集められた私たちですから、摩擦が生じるのです。私たちは救われた罪人の集まりであり、それぞれがきよめられる途上にあります。地上で課題のない交わりはありませんが、神は私たちに教会の交わりを建て上げることを望んでおられます。それが最後の晩餐の最後に祈られた、ヨハネ17章の主イエスの祈りにも現されています。20節を見ると、主イエスは目の前にいる弟子だけでなく、彼らの言葉を通してキリスト者となる人々を念頭に置いています。ですから、これは私たちのための祈りです。

 ここで主イエスが繰り返し祈られるのは、「弟子たちを一つにして下さい」という願いです。詩篇133篇で歌われたのは、すでに一つとされていることの幸いでしたが、この祈りにおいては、さらに「一つになる」ことが言われています。これはどういうことでしょうか。例えば、結婚について考えてみましょう。夫婦が神の前で一体と見なされるのは、結婚式で二人が誓約を終えた後の宣言です。それ以降、二人は夫婦であり、神の目に一体と見なされています。ただ一方で、夫婦生活がそれから始まっていく中で、さらに夫婦がお互いに努めて愛を育む中で、さらに一体とされていくことを目指します。これは教会でも同じことがいえます。洗礼を受けた時から、私たちは教会のメンバーとして、神の家族に加えられました。ただ、それもまだ一致の途上にある。だからこそ、信仰による一致を目指す必要があるわけです。一つとされていることと、一つになること。私たちはこのどちらも握る必要があります。

 では、私たちは何によって一致するのでしょう。それは6, 8節で祈られている通り、神のみことばを守ることによってです。ボンヘッファーはこうも言います。「交わりの中に、私たちが自分の考える人間的な理想を持ち込む時、それは交わりを破壊してしまう」と。もちろん教会の働きに関して、具体的な知恵を出し合うことが否定されているわけではないでしょう。ただ、御言葉に対する信仰の応答であるかが問われています。確かに、一人一人の個性には違いがあって、それゆえに多様性があるとも言えます。ただ、その多様性が信仰によって統一されなければ、世の集団と変わりません。互いの違いを表面的に取り繕うことや、自分は正しいという所から一歩も出ないことも信仰ではないでしょう。むしろ違いや罪人であるがゆえの摩擦を経験しながらも、キリストによって一つとされた所に立つ所に教会の歩みがあります。カルヴァンはこう語りました。「もし敵意が私たちの間に分裂をもたらすならば、私たちが兄弟となれるのは、共に神を見上げる時だ」と。たとえ個々の事柄に関して意見が合わずとも、みことばに共に従い、主を見上げることに関して、互いを愛する意志に関して一致を求め、交わりを建て上げたいと思います。

 今年の年間テーマは「交わりの再建」です。なぜ再建なのか。それはこの約3年間に経験した、コロナ禍を始めとする影響があるからです。この短い期間に、私たちは様々な変化を経験しました。教会でも様々なオンラインツールが用いられていますが、「交わり」という点ではどうでしょうか。オンラインで参加している限り、リアルな人間関係の煩わしさからも解き放たれます。でも果たしてそれでよいのか。私たちが救われるということは、教会の交わりに加えられることであり、それが私たちを生かし守るものとなります。交わりを欠いた信仰の歩みは貧しくなり、孤独になる時に罪の力は強くなります。だからこそ、神の前に一人で立つことと交わりの中にいること、どちらも大切にしたいのです。

 私たちは交わりに生きるように造られ、そこで天からの祝福を頂きます。私たちが交わりに加わるのは、神がそこに招いておられるからです。私たちは主イエスを信じ、このお方に従う決心をしました。そしてこの主に従うとは、交わりの中に生き、教会を建て上げることです。その先に「見よ。なんという幸せ なんという楽しさ」という恵みを味わうことができるのです。