「神のひとり子イエス・キリストを信ず」

ヨハネ1章14〜18節

牧師  中西 健彦   

誰かから悩み相談を受けた時、簡単に「わかる」と言ってはいけないと一般的に言われます。それは相手の立場に立たないとわからない限界が、私たちにはあるからです。ただ、自分に似た経験があれば、それを手がかりに、相手の立場を想像しやすくなることも確かです。聖書の語る神は、私達に無関心な方ではなく、そのひとり子イエス・キリストを世に遣わして下さいました。御子イエスは私達と同じ人間になり、この世界の住民となって下さったのです。この世界を造られた神が、なぜ人となられたのでしょうか。

Ⅰ. 神が人となられた奇跡

ヨハネの福音書の冒頭は有名です。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(1節)。この「ことば」はイエス・キリストを指し(17節)、永遠の昔から存在し、神とともにあり、神であったと言われます。なぜ「ことば」なのか。それは神が、主イエスによってご自身を明らかにされたからです。また、父なる神だけでなく、イエス・キリストもまた世界を創造に携わりました(3節)。さらに、イエス・キリストが人の世を照らす光であるとも言われます (4節)。その頂点が「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」という出来事(14節)です。まことの神でありながら、まことの人になられた。永遠におられる神が、歴史の特定の時点に、特定の民族の一員として、この世界に来られたのです。

この信仰告白を堅持するために、古代の教会は論争を繰り広げてきました。もしかすると、私達はそのようなことを、抽象的で無味乾燥な議論だと思うかもしれません。でも、これは私達が信仰生活において悩み得る、身近なテーマです。ドロシー・セイヤーズの著書「ドグマこそドラマ」では、このような声が紹介されています。「イエスが神なら、俺たちの問題は無関係だろう。神は元々、俺たちと違って苦しんだりしないんだから。その気になったら、奇跡を起こしてそれを終わらせることもできただろうし。また、神なら悪いことなんかやりたいと思わないだろうし、そういうものを、人間って呼ぶのはどうかなあ。神様ならいいことをするのはお手のもんだろうが、俺にとってはそうじゃないんだから。イエスは誘惑を受けたっていうが、それだって芝居みたいなものなんじゃないか。クリスチャンらしく生きろって言うけど、俺には今ひとつピンとこないんだよな――」。巷に溢れるこのような誤解は、聖書ではなく異端的な発想に基づいています。

主イエスはまことの人として母の胎から生まれ、子供時代を経て大人になりました。その肉体は、私達と全く同じでした。心も同様です。罪は犯しませんでしたが、すべての点で私たちと同じように試みられました。そのようなお方だからこそ、私たちの弱さに同情し、試みられている人を助けることができるのです。

神が人となったことは、最大の奇跡です。もしこれを信じられさえすれば、病の癒やしや嵐を治めるといった他の奇跡を信じる困難もなくなります。ヨハネはこう続けます。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」(14b節)。主イエスは、父なる神を明らかにする唯一の存在なのです。また、「私たちの間に住まわれた」(14a節)という言葉にも注目しましょう。主イエスは人として暗い罪の世に入り、そこに住んで下さいました。天地を造られたお方が、自ら私達の旅の仲間になって下さったとも言えるでしょう。主イエスは人としての苦しみを経験されたので、私達が苦難を経験する時にはいつでも、主イエスが先にそこを通られ、また私達に必要な助けを与えて下さることを確信することができます。

Ⅱ. 救いの切り札としての神のひとり子

このひとり子イエスは、「恵みとまことに満ちておられた」(14c節)といいます。ヨハネの福音書では「ひとり子」という言葉がもう一箇所で出てきますが、それが有名な以下の聖句です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(3章16節)。父なる神がひとり子を遣わした理由は、世を愛されたからでした。私達一人ひとり、さらにまだ主を知らない私達の周りの人々を滅びから救い出すためでした。

私達の罪を贖うためには、まことの神であり、まことの人であるお方が犠牲にならねばなりませんでした。もし主イエスが神ではなく普通の人間に過ぎなければ、罪と悪魔の力に打ち勝てず、私達の罪を赦すほどの犠牲にはなり得ませんでした。一方、もし主イエスが人にならなければ、死ぬべき人間の代表者にはなれなかった。人間から罪を除くためには、どうしても神が人とならなければならなかったのです。この意味で、主イエスは救いの切り札でした。

ただ、そこには計り知れない犠牲がありました。創造主なる神が、被造物の人間により、十字架にかけられて殺される。そんな衝撃的な出来事を通して、私達に救いがもたらされたのです。「私たちはこの方の栄光を見た」(14節b)ともあります。この栄光を見るためには、信仰の目が必要です。ヨハネによれば、イエス様の栄光は、主に「十字架」において現れます。本来、十字架は呪われた、最悪の死刑の方法であるにも関わらず…です。創造主が、私のためにいのちを投げ出して下さった。私の罪を背負い、そのさばきを代わりに受けて下さったのです。罪の泥沼に沈みゆく私たちを、神が身を挺して救いに来られた。それほどまでの神の愛です。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって、私たちにいのちを得させてくださいました。それによって、神の愛が私たちに示されたのです」(Ⅰヨハネ4:9)。

聖書の語る神は、天から見下ろすだけのお方ではありません。私たちのために神のひとり子を地上に遣わし、主イエスは十字架にかかられました。私達は主イエスを見れば、神がわかるのです。主イエスの姿を見る時、「あなたはひとりではない。あなたはこれほどまでに愛されている」という、神の語りかけを聞くのです。「我はひとり子イエス・キリストを信ず」と告白する私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けているのです。

私達は何としばしば平安を失い、課題を前に立ちすくみ、思い煩いの中に引き込まれることでしょう。でも、主はいつも私達に呼びかけておられます。「あなたの人生の重荷を私のもとに下ろしていい」と。あなたは今、試みを受けているでしょうか。問題を背負っているでしょうか。それを祈りの内に、主イエスに打ち明けましょう。この人となられた救い主は、私達の弱さを既にご存知です。それでいて、私達の隠れ場になって下さる。上から見下ろすのではなく、共感しつつ、横に並んで立って下さる。主イエスの元に行く時に恵みを頂いて、折にかなった助けを受けることができるのです。この主のみそばを歩んで参りたいと思います。