「我らの主イエス・キリストを信ず」

マルコ8章27〜38節

かつて、「WWJD?」(What would Jesus do? ―「もしイエス様なら、こんな時どうするか?」)と書かれたブレスレットが流行っていました。これについて、ある知人は「その腕輪の意図はいいんだけど、その人がどんなイエス様を信じているかが大事だよね」とコメントしていました。クリスチャンならば「主イエスはこの状況で、私に何を求めておられるだろうか」と考えます。ただし、「自分は主イエスをどう理解しているか。それは聖書の教える主イエスなのか」も同時に考えねばりません。

Ⅰ. イエスとは誰か? v27-30

今回の箇所は、マルコ福音書の分水嶺と呼ばれています。この福音書は「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」(1:1)という言葉から始まり、話が進むにつれて「イエスとは一体誰か?」が、サスペンスのように明らかにされていきます。人気絶頂の中、主イエスは弟子たちに「人々はわたしをだれだと言っていますか」と尋ねられました。弟子たちは、バプテスマのヨハネ・エリヤ・預言者の一人という人々の噂を伝えました。この評価によれば、主イエスが只ならぬ人物であるのは感じ取っていましたが、あくまでも人間の一人に過ぎない理解でした。

ここで、主イエスは「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と踏み込みます。ペテロはすかさず「あなたはキリストです」と答えました。これは他の人々と一線を画すものでした。ですが、意外にも主イエスは、それを誰にも言わないように戒められました。一体なぜでしょうか。それは、人々の勘違いを防ぐためでした。当時の人々のイメージするキリストは、ローマ帝国の支配から自由にし、自分たちの生活を良くするヒーローというものでした。ですから、「イエスはキリストだ」と触れ回ると、不幸な誤解が起こってしまう。だから、変な色眼鏡で見られないため、弟子たちに沈黙を守るように戒められたのでしょう。

Ⅱ. キリストについての誤解 v31-33

このキリスト告白が引き出された所から、「では、それはどんなキリストか」が明らかにされていきます。「それからイエスは、人の子(キリスト)は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた」(31節)。この福音書ではこの信仰告白を頂点にして、十字架への道のりが本格的に始まっていくのです。

この時、ペテロは何かおかしい方向に進んでいるように思い、主を脇に呼び出しました。「ちょっといいですか。イエス様、そんな弱気ではいけませんよ。そんなことがあなたに起こるはずがありません」。ペテロを突き動かしたのは、そんな彼の確信です。ペテロはイエスをキリストと告白しましたが、そのキリストを自分の理解に引き寄せたのです。興味深い事に、この「いさめた」という元の言葉は、実はこの箇所で3回出てきます(他に「戒められた」「叱る」)。この時、ペテロは「自分の方がわかっている」と言わんばかりに、主イエスよりも上に立っていました。主イエスが明確に十字架の歩みを話すのに対し、ペテロは確信を持って対決する。それは彼の善意と熱心から出たものでしたが、的外れでした。

主イエスはこのペテロを、「下がれ、サタン」と叱りつけました。ペテロは良かれと思って主イエスを諌めましたが、それは主イエスの使命と真っ向から対立するものでした。主イエスは、ペテロの心の奥底にあった人間的な動機と対決します。「あなたが考えているのは、結局自分のことではないか。わたしの使命を理解せず、その言葉に耳を傾けず、知ろうともしない。神の主権を認めず、その栄光を求めていない。それは人間的な見方に過ぎない」。

このペテロの問題は、「信仰ゆえの苦難」という理解がないことでした。「あなたはキリストです」と答えた時、彼はどのようなキリストを告白したのでしょう。決して苦しみを味わうことのない、自分たちを解放し、勝利をもたらすヒーローでしょうか。それは突き詰めれば、世のキリスト理解と同じでした。

私達は、ペテロを他人事のように笑えません。今日もこのような思いが、しばしば主イエスのみ声を塞いでしまうからです。多くの人々が、キリストの十字架の意味を否定します。主イエスは単に優しいだけのふわふわした存在、あるいは私達の地上の幸福だけを約束しているのでしょうか。もしそうなら、悔い改めの必要はなく、安っぽい恵みしかもたらないキリストになってしまう。「現代日本でクリスチャンが戦うべき主な敵は、教会に忍び込むこの世性」だと、ある人が言っていました。サタンは巧妙に世の価値観を聖書のそれと思い込ませます。だからこそ、目を覚ましていなければなりません。

Ⅲ. イエスを主として従う道 v34-38

主イエスは言われます。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(34節) 。「従う」という言葉には、「後ろについていく」という意味があります。イエスを主とすることは、この方の後についていくことです。「後ろに」という言葉は、33節の原文の「下がれ」という言葉にもついています。その時のペテロは、主イエスよりも前に身を乗り出していたのです。

主イエスの弟子は、その立ち位置が問われています。主イエスの後ろにいるか、前にいるか。つい先走って、主イエスの前に出てしまうのが私達です。祈るよりも、自分の力で何でもやろうとする。御言葉ではなく、これまでの経験値や世の中の常識で考えてしまう。その時、自分はどこに立っているかを、自らに問う必要があります。弟子とされた者は、主イエスの後についていくのです。主イエスが先頭に立って、その後に従うのです。

主は十字架の道を辿られました。ならば、その弟子もそれと無関係に生きることはできない。主イエスの後ろについて、自分を捨て、自分の十字架を背負うのです。ただ、十字架を背負う生き方というと、何だか厳しくてストイックで、悲壮感に満ちたものと思うかもしれません。しかし、主の招きは信仰ゆえの苦しみを通されつつも、私達が本当の自分自身を見出すいのちへの道です (35節)。

イエスに従う道は苦難を通されつつも、いのちに至る道です。「我らの主イエス・キリストを信ず」と告白するとは、自分の十字架を背負って、主に従っていくことです。その十字架を私たちは一人で背負うのではなく、私たちが通る前に、先にその道を歩んで下さった主がおられます。

あなたはイエスを誰だと言うでしょうか。もし救い主キリストだと答えられるならば、あなたは幸いです。それは神があなたの目を開いて下さった結果です。ただ、そこで留まっていてはいけません。あなたの信じているキリストは、どんなキリストでしょうか。主イエス・キリストは、あなたに地上の幸せだけを約束してはいません。それより遥かに素晴らしい永遠のいのちを、ご自身の身をもって差し出して下さいます。あなたは今、主イエスの前を先走ってはいないでしょうか。もう一度、主の後ろに戻りましょう。私達が主の後についていく時に苦しむこともありますが、その先にあるのは、この世の与える全てにまさったいのちです。このいのちの祝福を、共に味わいたいと思います。