「神の招きに応えた先に用意されていた恵み」

「神の招きに応えた先に用意されていた恵み」   2019年4月

中西健彦

 

今から7年前、私はバタバタと追われるようにして、新千歳空港に向かっていました。大学院での学びを何とか修了し、急遽舞い込んできた北栄教会の夕拝説教奉仕を終えた後、「これからの歩みには一体何が待っているのだろう…」という不安と期待を胸に、電車に揺られながら思い巡らしていました。その頃は、まさか自分が再び北栄教会に戻ってきて、しかも牧師として働くことになるとは夢にも思いませんでした。

 

私は2012年春に札幌を出立し、浦和福音自由教会の教会スタッフをさせて頂きながら、関東地区KGK(キリスト者学生会)主事として3年間働きました。KGK主事会チームの交わりに支えられて、失敗を含めてがむしゃらに色々なことに挑戦し、学生たちに向き合い、聖書を語る経験が与えられました。そのようなKGK主事としての働きは、忙しくも大変豊かなものでした。その後、歴代の北栄教会の牧師が学んだ聖書神学舎(聖書宣教会)という神学校で、4年間学ぶ機会が与えられました。学びは一筋縄ではいかないものでしたが、そこから得たものは数え切れません。KGKで働く中で考えさせられた一つ一つの事柄を学び直し、聖書を語ることの心得、また牧会について必要なモノの見方を教えて頂きました。その間に結婚へと導かれ、北栄教会で幸いな結婚式を挙げさせて頂き、妻とともに学べたのは大きな恵みでした。この背後には、北栄教会の皆さんのお祈りとご支援があったことを心から感謝しています。

 

神学校で与えられた恵みは数え切れませんが、その中で中心的な事柄をいくつか挙げてみたいと思います。

第一に、聖書の中には数えきれない宝が隠されており、「みことばには力がある」という確信が増し加えられ、さらにそのみことばを掘り下げるための必須の道具が与えられたことです。それを喩えるならば、埋蔵金を掘り当てるための、高性能のスーパーシャベルを得たような感じでしょうか(とはいえ、その使い手としてはまだまだ初心者なのでしょうが…)。時に厳しくもある聖書釈義の徹底した訓練を受けられたのは、御言葉の仕え人として教会を建て上げる今後の働きに直結する学びでした。原語から聖書を読み解くことで、以前は気づかなかった奥行きに気付かされ、「このみことばは、こんなにも深いことを語っていたのか…!」と静かな感動に震えた経験は数え切れません。これからは遣わされた北栄教会で、ひたすらそのみことばに聴くことを求め、それによって自らも教会も養われたいと思います。

第二に、多くの尊敬できる信仰者との出会いが与えられたことです。神学校の先生方からは溢れる聖書知識だけでなく、信仰者・献身者としての生き様を身近で教えて頂きました。また、私を含めた同期の兄弟たちは「七人の侍」とあだ名が付けられましたが、それぞれの賜物と流儀に従って、祈りと励ましをもって切磋琢磨し合えたことを感謝しています。寮生活を通しても、様々な訓練を受けました。一人暮らしが長かったマイペースな自分でしたが、四六時中顔を合わせて過ごす方々との関わりを通して、隠せない状況だからこそ自らの生き方を省みさせられました。先輩の部屋に入り浸って深夜まで尽きない話をしたこともあれば、後輩の皆さんとも親しくさせて頂き、その一つ一つの交わりを通して励まされました。奉仕教会では、先生方の牧会モデル、兄弟姉妹の信仰の姿に触れることで、実際的に教会に仕えることをイメージさせられました。この4年間で多くの方々との出会いと交わりが与えられたことは、私にとって大きな財産です。

 

北栄キリスト教会は、大学時代に信仰の何たるかを教えて頂いた、私にとってかけがえのない教会です。ここに導かれなければ、きっとまた違う人生を歩んでいただろうと思います。そのような教会だからこそ、牧師招聘のお話を頂いた時に真剣に祈り、神様の召しの不思議を思いながら、恐れつつもそれに応答させて頂いたのです。これまでは私の信仰の親ともいえる松元先生ご夫妻が牧会しておられましたが、いよいよそのバトンを引き継ぐ時が来ました。ある意味では家に帰るような所もありますが、それは同時にあのアブラムに与えられた「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」(創世記12:1)という召しに似ているようにも思います。正直に自分の心を顧みれば、「一体、神様は自分に何をさせようとしておられるのか」という恐れもあります。

 

しかし、献身の召しを受け取った際に与えられたみことばを思い出すのです。主イエスが「収穫は多いが、働き手が少ない」と語られて弟子たちを伝道旅行へ送り出す際、「狼の中に子羊を送り出すようなもの」だと喩えつつも、「財布も袋も持たず、履き物もはかずに行きなさい」と言われました(ルカ10:1-4)。それは人間的には無謀な要求のようにも思えますが、神のみを信じて一歩踏み出すことが弟子たちには求められていたのです。しかし、その後で主が弟子たちに「何か足りない物がありましたか」と尋ねられた時、「いいえ、何もありませんでした」というのがその答でした(ルカ22:35)。これは、私の身にも起こったことです。主は、右も左もわきまえないこの小さな者を召し、ここまで真実に導いて下さいました。神学校での歩みは自らに与えられた召しを確認し、みことばを語る使命を受け取り直す時でもありました。神様が導いてくださる時に必要なものはすべて備えられると信じ、これからも真実な主のみ手にすがって参りたいと思います。自分ではなく神の力に頼りつつ、与えられた恵みのバトンを次につなげていくこと、与えられたタラントを生かしていくことを求めていきたいと思います。この7年間の恵みを覚え、これからも真実な主の御手にすがりつつ、この北栄キリスト教会での新しい歩みにも期待したいと思います。