「ここにはおられません。よみがえられたのです」 

「ここにはおられません。よみがえられたのです」

2019年5月

ルカの福音書 24章1-12節

牧師 中西 健彦

今春、私は東京の神学校を卒業し、再び札幌へ参りました。移動中にしばらく静まり、今後の歩みを思い巡らしていました。人々を救いに導き、真の意味で教会を建て上げることは、人間の力では不可能です。主が土の器である私に働いて下さることによってのみ、それは実現されるのでしょう。でも、こちらに来て早速忙しさに追われる中で、何とか目の前の課題を自力で解決しなければ…と考える自らの傾向にも気付かされています。その時、主が今も生きて働いておられるという信仰があるのか、と改めて問われるのです。自分にばかり注目し、この生ける方の働きを勘定に入れないならば、すべてが自分の努力次第となるでしょう。しかし、聖書はそのように教えていません。私たちの主は、今も生きて働いておられます。そのことをイースターの出来事から共に学びたいと思います。

 

主イエスが死んでから3日目になる早朝、女弟子たちは深い悲しみに暮れながらも、香料を持って最後の奉仕をするために墓へと向かいました。しかし、彼女たちが墓に着くと、石が墓からわきに転がされていました。墓の中に入ると、主イエスのからだが見当たりません。女性たちは途方に暮れました。すると突然、まばゆいばかりの衣を着た二人の御使いが現れました。女性たちは非常に恐れ、地面に顔を伏せたといいます。

御使いたちは「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか」と言いました。これはその出来事の核心を突く問いです。彼女たちは、主イエスを既に死んだ人としか見ていない。でも、御使いは主イエスを生きている方だと言います。この両者は、同じ出来事に対する正反対の見方をしていました。

この状況は現代でも同じです。イエス・キリストという名前は、一般常識として誰もが知っています。でも多くの人々にとって、それは2000年前に十字架刑で死んだ過去の人間です。その生き方が賞賛され、「偉大な愛の教師」などと呼ばれることもあります。ただし、クリスチャン以外で、主イエスを今も生きている方だと信じる人はいません。さらに、自らをクリスチャンだと自認しても、復活を信じていない場合もあります。しかし、使徒パウロが語るように、キリストが復活しなかったとすれば、私たちの信仰は空しいものとならざるを得ません。復活の否定、それは永遠のいのちや天国への希望の否定です。主イエスの言葉は信じられなくなり、罪の赦しもなくなります。それはキリスト教信仰の本質が、骨抜きにされているのと同じです。しかし、聖書は「キリストが復活して今も生きて働いておられる」と大胆に宣言しています。

既に主イエスの復活を信じる方々からすれば、それは当然の信仰告白でしょう。ただ、もう一歩踏み込んで問いたいのです。私たちの生活の全領域において、「主イエスが生きておられる」という信仰があるでしょうか。教会で礼拝を捧げている時はそれを疑うことはなかったとしても、平日の職場・家庭・学校で同じ復活の信仰があるでしょうか。復活というテーマを、単なるお題目のように信じるのでは十分ではありません。あなたにとって、主イエスはいつも生きておられる方でしょうか。あるいは、この女性たちのように死人として見ることがないでしょうか。

御使いは「ここにはおられません。よみがえられたのです」と語ります。この「よみがえられた」という言葉には受動態が使われ、正確には「よみがえらされた」と訳されます。つまり、それは主イエスが、父なる神の御力によって復活させられたことを意味します。父なる神が主イエスを選び、その語った言葉を正しいと認め、その贖いが全うされたことを示す第一の証拠が「復活」なのです。それは主イエスを信じる者たちが、いずれ復活するという約束でもあります。

続けて天使たちは言います。「まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい」。この御使いたちは、復活の理由をくどくどと説明したのではありません。実はこの女性たちは、既にこの復活について主イエスご自身から予め聞いていました。ですから、ここで彼女たちに求められたのは「思い出す」ということでした。

御使いの促しによって、彼女たちはイエスのことばを思い出しました。これが彼女たちの転換点になったのです。主の言葉を思い出すことで、目の前の出来事の意味を理解することができた。この時まで、彼女たちは悲しみと混乱の中にありましたが、復活の事実を聞かされてからは驚きと喜びが心の中に生まれました。

ここから、主のことばを思い出すことの大切さを教えられます。聖書のみことばの約束を思い出すことは、私たちが信仰を働かせる上でどうしても必要です。忙しさの中でみことばを読み、祈り、黙想することを難しく感じている方もいるでしょうか。しかし、普段から主との生きた交わりに生かされ、みことばを心の中に蓄えておく必要があります。その上で、日常の様々な出来事が起こる際に、主の言葉を思い出したいのです。その時、私たちはみことばが机上の空論で終わるのではなく、現実の生活とリンクし、「あなたのみことばは本当にわが足のともしびだ」と言えるような、みことばの力を経験することになります。

彼女たちは墓から戻り、弟子仲間の所に戻って、起こった出来事を報告しました。しかし、それを聞いた使徒たちは、その話を「たわごと」と思って彼女たちを信じませんでした。多くの現代人は、初めから復活を信じることはほとんどないでしょう。でも、それは2000年前も同じです。主イエスの一番近くにいた使徒たちは、信じるか信じないかというギリギリの所にいたのではなくて、全く疑い深い人々でした。こんな疑い深い彼らが、後に主イエスの復活を伝えて、それに命をかけて殉教したことは、復活が本当に起こったことの大きな証拠の一つだと言えるでしょう。

 

キリスト教会では、毎週日曜日に礼拝をささげています。なぜ日曜日か、それはこの主イエスの復活を記念して祝うためのものだからです。女性たちが空の墓に行った日、それは新しい時代の幕開けでした。主の復活を祝う記念日としてイースターが定められていますが、実はキリスト教会は7日ごとに復活の主を覚えて集まっているのです。

あなたにとって、イエス・キリストは死んだ過去の人でしょうか。それとも、今も生きておられる復活の主でしょうか。「主イエスは、今なお生きておられる」と信じる時に、私たちの現実への見方は変わります。復活の希望があるから、私たちの地上でのあらゆる努力、主のための労苦は無駄ではありません。将来、天で与えられる栄冠があります。その時、私たちは既に世を去った兄弟姉妹たちとの喜びの再会を果たします。そのことを期待し、復活の主を信じて歩んで参りたいと思います。