「姦淫するな—性・結婚の祝福を 取り戻すために」

マタイの福音書5章27~30 節

 聖書には一度聞いたら忘れられない言葉がありますが、今回の箇所もその一つでしょう。「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」(5:28)。現代社会では性的な描写があらゆる場面に溢れています。性は商品化され、手軽にアクセスできる現実があります。寂しさや欲求不満を感じる時、いっときの解放を求めてのめり込むことがあるかもしれません。それに対して、主イエスは本来あるべき性・結婚のあり方を教えられました。

 

Ⅰ. 心の内面を問う神

 「姦淫するな」という十戒の第七の戒めは、当時も周知のことでした。「一線を越えなければよい」という常識は、今も昔も変わらないでしょう。ですが、主イエスは行為に至る前の「心のあり方」を問われるのです。問題にされているのは、情欲を抱いて異性を見る視線と、そこで抱く妄想です。対象をじっと見つめ、欲情をもって心の中で我が物にする。それは既に姦淫の罪を犯しているのと変わらないと言われます。

 「これだからキリスト教は堅苦しい。聖書は性を抑圧している」と思われるかもしれません。しかし、初めに神が人を造られた時、「生めよ、増えよ」(創世記1:28)と仰せられました。性欲も結婚も、神が人間に祝福として与えられたものです。ただ、他の祝福と同様、それが誤用される時に問題が生じます。

 パウロは、「淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません」(エペソ5:5)と記しました。性的な罪は偶像礼拝だというのです。神に代わるものとなり、理屈を超えた快感によって解放を得ようとするからです。

 現代では、自制の必要を感じないほど自由に楽しむ風潮があります。しかし、軽い動機とは裏腹に、その結果は悲惨です。神が夫婦のために与えられた祝福の「性」が誤用されるならば、本人も周囲も大きな傷を負うことになります。

 これは、誰も「自分は大丈夫」とは言い切れないことではないでしょうか。誰かの軽い気持ちが、被害者の人生を根底から揺るがすこともあります。性の問題は人間の尊厳に関わり、それが踏みにじられるならば、人格の深い所で傷を負ってしまいます。姦淫は私たちを破滅させる恐ろしい罪です。だからこそ、「性」を神の意図された本来あるべき所に戻すことが必要なのです。

 

Ⅱ. 十字架の下で聞くべきことば

 続く29-30節では、さらにこのように語られます。「もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。……もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい」。これらの強い言葉は、情欲の問題がいかに制御困難で破壊的かを示しています。性的な衝動は本来、夫婦の絆を強める瞬間接着剤のようなものでしたが、人類の堕落によって歪められてしまいました。

 私たちは、他人も同じだからと罪を軽視しがちです。しかし罪は神の御前で重く、私たちがどう思おうと、確実に私たちを死の方へと引っ張っていきます。厳しすぎると思うかもしれません。しかし、たとえ私たちに実感がなくとも、神の前に自分がどう映っているかを考えなければなりません。

 その時こそ、キリストの十字架がいかに尊いかを知らされます。私たちが心の中で犯す罪、また行動に表れた罪のために、主はゲヘナの苦しみを味わわれました。主の激しい言葉は、私たちの罪を十字架で自ら負われる決意の表れでもあります。身代わりの救いなしに、私たちは滅びるしかありませんでした。しかし、主は私たちを罪とそのさばきから救い出してくださったのです。

 もし罪を重ね、罪悪感に苦しんでいるなら、十字架の前に進み出ましょう。姦淫の罪こそ、十字架の下で扱われなければなりません。キリストはその罪のために死なれ、赦しの恵みと永遠のいのちを与えてくださいました。誘惑に負け、罪を犯してしまう度に、悔い改めることをやめず、この恵みを受け取り続ける者でありたいと願います。

 

Ⅲ. 誘惑との戦い

 罪赦されたならば、これまでと同じように罪にふけっていてはいけません。初めから開き直らず、むしろ「罪と戦え」と言われるのです。もちろん、それは自分の力だけでは不可能です。ですが、キリストを信じる者の内には御霊が住んでおられます。自らを聖霊に明け渡し、その促しに従うのです。そのためには、できることは何でもしなさいと主は言われます。右手や右目は神からの大切な賜物ですが、それが罪の道具になるなら捨てなさい、というほどの覚悟です。誘惑になる状況や弱さは人それぞれであり、戦い方もそれぞれが見出さなければなりません。ただ、「肉に餌を与えず、炎に燃料をくべない」ことが必要です。

 その戦いは簡単ではありません。ですが、私たちを祝福し、恵もうとされる主の言葉を信じて従うのです。キリストは私たちのために十字架で死なれました。それは、私たちの歪められた性・結婚のあり方を回復するためでもありました。健やかで誠実な生き方へと招かれているのです。

 主の前に自らを吟味しましょう。心の内に罪はないか。密かに楽しみ、想像を巡らせていないか。誘惑に陥りやすい状況はないか。もしそうなら、初期の段階で退けるのです。

 あるいは、この罪で悩んでいるならば、それを十字架の下に持って行きましょう。そこで「わたしもあなたにさばきを下さない」(ヨハネ8:11)と言われる主の御声を再び聞くのです。この主こそ、あなたの罪のために十字架にかかられた救い主です。そして、同じ主によって、私たちはまた送り出されます。「行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」(ヨハネ8:11)。