「心のきよい者は幸いです」
マタイの福音書5章8節

 あなたは神を見た経験があるでしょうか。そう聞かれると、「いや、神は目に見えないのに、果たしてそんなことがあるだろうか…?」と思うかもしれません。ですが、神が生きておられることを知らされたり、今の自分にこれが語られているんじゃないかと思う経験を、キリスト者は日々するのではないでしょうか。信仰を持つと人生の眺めが変わります。神の子とされた者の人生は、全てが偶然ではなく、父なる神の配慮の下にある歩みとして受け取れます。一方、そのような感覚がいつも持てる訳ではないでしょう。祈っていれば答に気づけますが、そうでないと偶然だと片付けられる。だからこそ、自分の心の態度が大切です。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから」。ここに信仰の世界が言い当てられています。

 

Ⅰ. 心のきよい者は幸いです

 「心がきよい」とは、どんな状態のことでしょう。「きよい」とは、純粋で混じり気なく、裏表がないことを意味しています。つまり、神の前で「心がきよい」とは、神に対して誠実な心、嘘をつかない心のことでしょう。その反対は「二心」「偽善」という言葉が思い当たります。パリサイ人はきよさの専門家でしたが、それは外側だけで、生ける神との交わりを知らずにいました。

 そのパリサイ人との論争において、主イエスはこう言われました。「内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです」(マルコ7:21-23)。私たちは外側をきれいに装い、心の内面をごまかすことができます。ですが、仮面をつけたままで神を見ることはできません。

 ただ、完全に心がきよい人などいるのでしょうか。神の前で罪がない人はそもそもいません。エレミヤは「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい」(エレ17:9)と言いました。生まれつき心がきよい人はいないのです。箴言でもこう言われます。「だれが、『私は自分の心を清めた。私は罪から離れ、きよくなった』と言えるだろうか」(箴20:9)。それでは、「心のきよい者の幸い」と言っても、それは人間には不可能な絵空事に思うかもしれません。自力で心をきよめようというのは絶望的な試みです。それは環境や教育のせいではなく、私たちの根っこが取り扱われなければなりません。

 けれども、私たちが主を信じて聖霊を頂く時、心を変えていただける約束があります。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする」(エゼ36:26)。かつては石のような心を持っていた私たちですが、主は新しく柔らかい心を与えて下さるというのです。

 元々、私たちの心はきよくありません。けれども神の前で、自らの罪を認めて悔い改める時、主は私たちをきよめて下さいます(1ヨハネ1:8)。元より主は全てご存知ですから、自分を不必要に大きく見せる必要はありません。また、祈って求める先に、心をきよくしていただくことができる。ダビデもこう祈りました。「神よ 私にきよい心を造り 揺るがない霊を 私のうちに新しくしてください」(詩51:10)。この時、ダビデは大きな罪を犯し、もはや自分を信じることができず、心を神にきよめていただかなければ…と思っていた。そこで、神の前にありのままに祈るのです。罪と汚れは自分の内側に巣食っていて、自分の中から悪い思いが湧いてくる。そんな現実を知る時、魂は砕けます。砕かれつつ、叫ぶのでした。

 また、箴言では「自分の心に気をつけよ、いのちの泉はここから湧く」(箴4:23)とも言われています。何が心のきよさを妨げるのか。世に対する心遣いや、人にどう見られるかを気にしがちな私たちです。でも、外側を飾ってごまかすのではなく、心にあるものが何かを気をつけ、何か良からぬものがあれば神の前に告白する。それが心きよめられる鍵でしょう。

Ⅱ. その人たちは神を見るから

 その先に、「神を見る」幸いがあります。それは肉眼で神を見ることではなく、神の臨在をあらゆる中で認めることです。恵みの内に神を見た人々が、聖書に記されています。例えば、イスラエル人の先祖ヤコブは、兄エサウと再会する前の晩、ペヌエルで神と格闘しました。その時、彼は神を見たと言われています。ヤコブは元々策士でしたが、その時、自分を偽っている場合ではなかった。なりふり構わず、神と一対一で向き合って格闘するのです。ヤコブは聖人でもなければ、失敗も沢山ありました。ただ様々な出来事を経て、荒削りながらも主を信じようとした。その先に神を見たのです。

 これまでの歩みを振り返る時に、神を垣間見る経験がなかったでしょうか。ずっと祈っていたことが応えられる。自分の罪に悩み抜いた先に、十字架にかかられたキリストを仰ぐ。暗いトンネルを通るような試練の中で、みことばに励まされて、何とかそこをくぐり抜けることができた。そこで主を近くに感じる経験をさせていただく。例えば、そのようなことがあります。

 ただ一方で、いつも敏感に神の臨在を覚えられない現実もあります。神が見えにくくなるのは、どんな時でしょう。自分の心が一杯のときは、神の入られるスペースがありません。世に対する心遣いで、信仰の目が曇ってしまうからです。また、高ぶりや偽りの中にいると、神が見えなくなる。だからこそ偽りを捨て、キリストを通して神を見ることが必要です。かつて主イエスは「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14:9)と弟子たちに言われました。そのように主イエスを知るとは、自分の罪を贖うために来られた神のひとり子として、救い主として知るということです。それならば、自分の罪を認めてへりくだってキリストを見上げる時に、私たちは神との交わりを取り戻し、神を見られるようになるのはないでしょうか。

 神とまみえる時、私たちは満ち足ります。私たちは地上でもそれをいくらか味わえますが、やがて天で顔と顔を合わせて、主とお会いする時にそれは完全なものとなります。地上の礼拝は、その祝福の前味です。礼拝をささげる度に神の臨在に触れ、心を注ぎ出して祈る先に、神を見ることができる。そうして神の臨在を取り戻し、日常に遣わされる先に、あらゆる所に神を見ることができるようになる。心きよめられた人は、主との豊かな交わりの内に生かされます。二心ではなく一筋の心を持って、主に従って歩む私たちでありたいと思います。