「私たちの心は内で燃えていたではないか」
2019年6月
ルカの福音書 24章13-15節
牧師 中西 健彦
皆さんは、ジョン・ウェスレーをご存知でしょうか。彼は牧師家庭に15番目の子供として生まれ、信仰深い母親に育てられました。やがて教職者となり、アメリカの教会で働くことが決まりました。そこで彼は船旅をするのですが、その途中で、船は激しい嵐によって大混乱に陥りました。でも、その混沌とした中で歌声が聞こえてきた。それはモラヴィア兄弟団というクリスチャンの一団が賛美を歌う声で、彼らは信じられないほど平穏でした。嵐が過ぎ去った後、ウェスレーはこの人々の振る舞いの根拠が死を恐れない信仰にあったことを知り、自らの信仰を顧みさせられました。目的地に到着してから、ウェスレーはそのモラヴィア派の人物と会って、このような会話をしたことが彼の日記に記されています。
「『君は自分の中に証を持っているか』と彼は言った。わたしは驚き、どう答えてよいか分からなかった。それを見た彼は、こう尋ねた。『君はイエス・キリストを知っているか』。わたしは少しためらってから答えた。『世界の救い主であると知っています』。彼は続けて言った。『そうだ。しかし、キリストが君を救って下さったことを知っているか』。そこで『わたしを救うために死んでくださったものと願っています』と答えた。すると彼は『君は自分自身がわかっているか』とだけ付け加えた。そこで私は『はい、もちろんです』と答えた。しかし、わたしはこの自分の言葉が空虚なものにすぎないのではないかという恐れに駆られた」。この経験は彼をひどく動揺させました。これまで、自分は常に良いキリスト者だと自認してきた。でもここに来て、自らの信仰を疑わざるを得なくなったのです。その後、彼の働きは思わぬ挫折を次々と経験し、失意の内にイギリスに帰ることになりました。帰ってから、彼はある集会に出て回心の経験をするのです。日記にこのように書かれています。
「その日の夕方、わたしはあまり気が進まないままにアルダスゲート通りの集会に行った。そこである人が、ルターの『ローマ人への手紙』の序文を読んでいた。9時15分前頃、キリストへの信仰を通して、神が心に働いて起きる変化について語られていた時、わたしは心が不思議と温まるのを感じた」。
この出来事が転機となり、ウェスレーは目覚ましい働きをし、多くの魂を主に導きました。このウェスレーの話は、既に知っている聖書の真理によって心が燃え立たされる経験でした。皆さんには、このようなみことばによって心が燃えた経験があるでしょうか。
今日の箇所は多くの人に愛される「エマオの途上」の記事です。ここから、主が霊的に鈍い私たちに近づいて、みことばをもって心を燃やすことのできるお方であることを学びたいと思います。
Ⅰ. エマオに向かう二人の弟子 v13-16
それは、イースターの午後のことでした。ここに出てくる二人の行き先はエマオという村です。彼らは、最近の出来事について話し合っていました。主イエスの波乱に富んだ生涯、華々しい歩みとまさかの転落。そして、今朝聞いた空の墓の話をいぶかしみながら議論していました。その彼らの所に、主イエスが近づきます。ただし、彼らは悲しみと失望で頭が一杯になっており、それが誰だかわからないのです。彼らが主イエスに気づかなかった理由は書かれていませんが、彼らの「霊的な盲目」が関係したのではないかと思われます。しかし、弟子たちが混乱している時も、主イエスの方から近づいて下さるのです。
信仰者の歩みは自らの努力だけによるものでなく、どこまでも神の憐れみによって歩ませて頂くものです。もしかすると、今、あなたもこの二人のようだと思うかもしれません。でも、主イエスは、そんなあなたを放っておかず近づいて来て下さるのです。悩みと悲しみの中にいるあなたに近づき、ともに歩んで下さる中で取り扱って下さるのです。
Ⅱ. 語りかけるイエス v17-27
イエスは彼らに「歩きながら語り合っているその話は何のことですか」と話しかけます。すると、二人は暗い顔をして立ち止まりました。クレオパは呆れました。イエスが十字架にかけられた事、それは明らかにエルサレム中の注目が集まる一大ニュースでした。それなのに、この人は知らないのか。「あなただけがご存じない」、それは「自分たちは知っている。その一方で、この人は全然わかっていない」という言葉なのです。でも、この「自分たちは知っている」と思う彼らこそが盲目で、主イエスの言葉への不信仰がにじみ出ていた。
主イエスが「どんなことですか」と尋ねると、二人は「ナザレ人イエス様のことです」と答えました。彼らにとってイエスは偉大な預言者であったし、救い主だと信じていた。でも、祭司長たちの手でやすやすと処刑されてしまった。彼らは「望みをかけていた」と過去形でしか話しません。彼らにとって、イエス様は過去の人で、すでに終わったこととして語るのです。
そのような彼らに向かって、主は「ああ、愚かな者たち」と嘆かれます。彼らの愚かさ・心の鈍さの原因は、聖書の全てを信じない中途半端な信仰でした。受難と復活の予告を、彼らは既に3回以上聞いていました。それなのに、覚えていない。問題の根は、自分の見える視野が全てだと思いこみ、聖書の教えを彼らが理解していないことにあったのです。でも、主イエスはそのような彼らに愛想を尽かしてしまわれたのではありません。彼らが納得できる箇所だけではなく、難しそうで読み飛ばしていた所も含めて「聖書全体」を解き明かされたのです。
私たちもこの「聖書の全体」を信じているでしょうか。好きな物だけ食べる時に栄養バランスを崩すのと同じように、みことばの偏食をしていないかと考えさせられます。主イエスのお叱りを真剣に受け止めたいと思います。私たちは既に知っている、と考えて、実は信じるための材料を生かせていない事があるのです。信仰は自動的に働くのではありません。私たちが積極的にみことばを蓄え、思い出し、目の前の出来事に当てはめて初めて意味が出てくるのです。
Ⅲ. 復活のイエスに気づく二人 v28-35
やがて、彼らは目的地エマオに着きました。クレオパたちは、主イエスを自分たちの泊まる家に招きました。食卓に着くと、主イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。その時、彼らはこの人が主イエスであることが分かりました。彼らの目が開かれた途端、主イエスは忽然と姿を消した。二人は話し合いました。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか」。
そこで、二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。もう夜でしたが、再び11キロの道を引き返すのです。彼らの得た真理は、自分たちだけのものにしておくわけにはいかなかった。初めは疑いの中にいた彼らが、主イエスに出会うことで、復活の証人へと変えられたのです。みことばが二人の心を燃やし、それが交わりの中で分かち合われ、他の弟子たちの心をも燃やしました。このように、教会はみことばに燃やされた人々が集まり、それを分かち合うことで信仰の炎が飛び火し、互いに燃やされる所だともいえるでしょう。
主は霊的に鈍い私たちに近づいて、みことばをもって心を燃やすことのできるお方です。もしかすると、かつての二人の弟子のように、今、気落ちしておられる方もいるかもしれません。ですが、そんなあなたの傍らにも主イエスは共にいてくださいます。そして、私たちが聖書のみことばの真理に生きる時、私たちの心は燃やされ、生きる力が与えられるのです。みことばに心燃やされて、信仰の歩みを重ねていきたいと思います。