マタイの福音書6章11節,25~34節
主の祈りは、私たちの生活をも射程に含めています。これは私たちの衣食住をはじめ、仕事・家庭・教育・人間関係というように、日常生活に直結する祈りです。この祈りが教えられるのは、何より主が私たちの必要を知っていて下さることにほかなりません。私たちの信仰の営みは、浮世離れした禁欲主義ではありません。この世界を喜び、与えられた糧を賜物として味わい、それによって生きるようにというのです。
Ⅰ. 私たちの日ごとの糧
主イエスは私たちの体の必要を祈れと教えられます。神学者のティーリケは「私たちの人生の9割は、生活のこまごました事柄から成り立っている。体のどこかの調子が悪いとか、任された仕事の締め切りが近いとか、子供の様子や、面倒な手紙を書かなければならないといったことである。…しかし、感謝すべきことに…父なる神は私たちの生活の小さな事柄にまで関心を寄せて下さるのだ」といいました。聖書は、私たちの現実的な必要を軽んじていません。主イエスご自身も人となられ、汗を流し、眠り、喉も渇けば空腹も覚えられました。人々が病気で苦しんでいる時には、それを見過ごしにせず癒やされました。弟子たちが働き詰めだった時は休むようにも言われ、疲れの問題も無視されませんでした。
これは生活に困っている人だけの祈りかというと、そうではありません。たとえ富んでいる人であっても、この祈りを通して神から糧を頂いていることを思い出すのです。主イエスのたとえ話の一つに、愚かな金持ちのたとえがあります。その金持ちの畑が豊作だった時、彼は何年分もの食物を蔵に蓄え、あとはひたすら楽しもうと考えました。しかし、神様はこの彼を愚か者とし、もしその日に死んでしまうなら、蓄えたものは無意味だと言われます。彼の人生の目的は、地上止まりでした。神が養って下さるという意識は微塵もなく、自分で自分のいのちを握っていると思っていた。でも聖書は言うのです。あなたの心臓を今も動かし、呼吸をさせ、生かしておられるのは神だと。だから、富が与えられていても、日々の糧を毎日主から頂いて感謝するのです。
私たちは、人生に保険をかけたいと思います。でも、主は将来の保障や一生分の糧ではなく、日毎の糧を願えと言うのです。もちろん計画を立てることは必要ですし、地を治める責任を思う時に、賢く予測を立てることも必要でしょう。ただ、それでも私たちは将来の全てを支配できません。わからない所は、主に委ねることが求められます。主イエスは思い煩いに囚われやすい私たちの目を、天の父に向けさせます。思い煩う時とは、日毎の糧を与えて下さる天の父が見えなくなる時です。そんな時、主イエスは空の鳥、野の草を見よといわれます。神がこれらのものさえ養われるなら、なおさら神の子とされたあなたがたは父の配慮の元にあるのだと。だから、明日のことまで心配しなくていい。あなたは今日という一日を誠実に、精一杯生きよと。
この祈りは、私たちが毎日主に信頼することを教えます。イスラエルの民はエジプトから出発した後、荒野でマナという食べ物を食べました。人々は40年間、荒野をさまよいましたが、日々必要な食べ物が備えられました。荒野で与えられたマナは、主に日々信頼することを教える実物教育でした。「今日も主にのみ信頼するのだ」という信仰の決断を繰り返しながら、主を待ち望む者でありたいと思います。私たちの人生も、先が見えずに不安になることがあります。でも神は毎日、生きるために必要な力を与えて下さいます。今日を精一杯生きることが、明日の歩みにつながっていくのです。
ただ、この豊かになった日本で、この祈りはあまり切実ではないかもしれません。食べ物は、すぐお店で調達できます。家の冷蔵庫には、食材も蓄えられている。欲しい物もインターネットで注文すれば、数日後に届く便利な世界に私たちは生きています。ですから、自分の必要は自分で満たせると錯覚するかもしれません。自分が食べたい時に食べたいものを食べ、食べたくないものは残す。そこで神様を思い起こすことはほとんどない。でもこの祈りは、日々の糧が私たちへの神からの贈り物であることを伝えます。神が与えて下さった恵みの糧を、私たちは楽しむことが許されています。恵みを数えて感謝するのです。
Ⅱ. 恵みの糧を分かち合う
また、日ごとの糧は「私の」ではなく「私たちの」といわれています。私たちの糧とは、自分だけでなく、隣人も共に預かる糧です。バシレイオスという古代教会のリーダーは、こう語りました。「あなたの家で食べられることのないパン、それは飢えている人たちのものです。あなたのベッドの下で白カビが生えている靴、それは履物を持たない人たちのものです。物入れの中にしまいこまれた衣服、それは裸でいる人たちのものです。金庫の中でさび付いているお金、それは貧しい人たちのものです」。これは物を溜め込み、物質主義に囚われやすい私たちにとって痛い言葉です。神からの贈り物である糧は、どこかにしまいこむためにあるのではない。それは兄弟姉妹たちのためのものでもあります。この祈りは、私たちの生活を吟味させ、自分の手にある糧を通して隣人に何ができるかを問いかけます。
この祈りは過度の贅沢を願う祈りではありません。箴言にはこんな言葉があります。「貧しさも富も私に与えず、 ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。私が満腹してあなたを否み、『主とはだれだ』と言わないように。また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことのないように」(箴30:9)。また、ある人はこう言いました。「私たちはパンが少なすぎて滅びるのではなく、あまりに多くのパンを集めて絶えず消費し続けることで、自分の中の空しさをごまかそうとして滅びる」と。大して必要でもないのに、「これが必要だ」と絶えず呼びかけるコマーシャルの中で、何が本当に必要なものかを吟味し、貪欲から自由にされたいと思います。満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道だと聖書は言います。「もうこれで十分だということを知る恵みを与えてください」と祈ることで、私たちは基本に立ち返ります。その中で、自分が欲しいものではなく、自分が本当に必要な物を求めるように訓練されていくでしょう。
私たちの毎日の必要は、恵みの源なる神様が満たして下さる。これが第四の祈りの約束です。この祈りは「自分のもの」ではなく、「神のもの」で生きていくことを願う祈りです。信仰を日常生活のただ中で働かせ、些細な事柄に至るまで、私たちのいのちが神に支えられていることを覚えたいと思います。