「みこころが行われますように」

 

みこころが行われますように   

 2023年9月

マタイの福音書6章9-10節、26章36-46節

牧師 中西 健彦

 

Ⅰ. みこころ

主の祈りの三番目の祈り「みこころが行われますように」は、聖書以外にも似た祈りが知られています。ギリシャ哲学者のエピクテートスは「ゼウスの神、大いなる運命の力よ。神のみこころが、私に命じる所に導きたまえ」と祈りました。ただ、これは主の祈りと似て非なるものです。当時のギリシャ人は、運命論を信じていました。世界は逃れることのできない法則の下に置かれ、無力な人間は神々の世界には到底及ばず、神々の意志の前にはお手上げ状態で、従うしかないという発想がありました。日本人も悪いことが続くと、「これは前世から続く因縁じゃないか」「先祖のたたりだ」などと考えますが、それと似ているかもしれません。

一方、聖書の語る神はどうでしょうか。神は全ての主権を持ち、この歴史の歩みを導いておられます。ただ、人間はロボットではなく、自由意志が与えられています。神の主権と人間の自由意志が共存している。ですから、私たちが祈る「みこころがなるように」という願いは、抗いようがない運命にただ降伏するのではない。むしろ、神の救いのご計画に積極的に従うことを意味します。

ただ、この「みこころ」という言葉は、時に誤用されます。敬虔さを装いつつも、自らの願いが御心とすり替えてしまうのです。もちろん、聖書には私たちが知るべき神のみこころが余す所なく書かれています。私たちが神のみこころを知るためには、聖書全体を読む必要があります。聖書は、私たちの個人的な運命や将来を映し出す水晶玉ではありません。聖書には神様の願い、ものの見方が記されているのです。

 自らの常識や経験を読み込んでしまうことに注意しつつ、謙遜な態度を持って聖書に聴き続けましょう。そうすれば、神様が何を喜び、何を悲しまれるのかが少しずつわかってきます。また、私たちは祈っても聞かれない時、「一体なぜだろう」と思います。ただ「思い通りにならない」という嘆きの裏には、自分の思いは最善だという前提があります。私たちはこれが一番良いと思っていても、そうでないこともある。自分の思いを正直に伝えることは必要ですが、最終的には手を開き、委ねる心を忘れないでおきたいものです。

 ところで、主の祈りを祈る時、この第三の願いは特に長く感じられます。それは「天になるごとく、地にも」と言う言葉があるからです。このフレーズは、ここまでの祈りを包括的に覆っているように理解できます。「天」とは神がおられる所で、そこでは御名が聖とされ、神の支配があり、みこころに逆らうものは一つもありません。一方、私たちの住む「地」は、サタンと罪による暗闇の力が覆っています。歴史で繰り返される悲惨な出来事は、神から離れた罪にその原因があります。この地上における渇きが指し示すのは、私たちの本来あるべき、造られた時の記憶です。神のかたちを持つ人間には、信仰の有無を問わず、この世界は何か間違っているという直感があるのではないでしょうか。それは聖書の観点からすると、地でみこころが行われていないということでしょう。

 だから、この祈りを祈る時、私たちは本来の秩序が取り戻されることを願っています。ハイデルベルク信仰問答はこのように解説します。「この祈りは、われわれおよび全ての人間が、自分の意志を捨てて、ただひとり善であるあなたの意志に、いかなる抵抗もなすことなく、聞き従う者となること。また、すべての人が自らの持ち場と職を、天にいる御使いのように、喜んで忠実に務める者とならせてください」というものだと。自らの遣わされている所にあって、神のみこころに聞き従い、天使のように仕えるのだと考えると、この願いはどんなに具体的で、真剣なものかがわかってきます。

Ⅱ. 行われますように

 この祈りは、自分を明け渡すことを求めてきます。時に、私たちは「みこころがわからない」とつぶやきます。でも、みこころが示されれば、果たして従いやすいのでしょうか。むしろ問われるのは、みこころが示された時に従う備えがあるかです。これを本気で祈るためには、神ご自身に信頼しなければなりません。神のみこころとは、私たちを救い、恵みを与えようとされる意志です。そのために、御子のいのちさえ与えられている。この神の良き意志を信じつつ、自らもその御用のために用いて頂くのです。

 ただ、それを本気で生きようとする時、必然的に戦いも起こってきます。神のみこころを行う上で戦う模範の姿は、やはり主イエスの内にあります。イエス様はこの第三の祈りをゲッセマネの園で祈られました。主は十字架にかかる前夜、そこで祈りの格闘をされました。いよいよ十字架を目前に控えた主イエスは、悲しみ悶えられました。人間の罪を全て背負い、神のさばきを一身に受ける。それがどれほど苦しく恐ろしいことか、私たちには知り得ません。でも、それをご存知の主イエスは「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい」と祈りました。まず、自分の願いを正直に申し上げる。けれども間髪入れず、自分の願いとみこころがぶつかる時、進んでみこころが行われるようにと願われた。その祈りを三度なされました。この粘り強い祈りによって、十字架の道を歩む力が与えられました。私たちも同じです。戦いの中で「みこころが行われますように」と繰り返し祈る中で、主のみこころを選び取る力が与えられる。祈りは、神様に自分の願いを押しつけるものではなく、私たち自身を変えるものです。祈っているかどうかで、物事への向き合い方が変わってくる。眠り込んだ弟子たちは直後に逃げ出してしまいましたが、主イエスは毅然とした態度で応じられました。眠ってしまえば、戦いも見えなくなる。しかし、祈り抜くことで十字架を担う勇気と力が与えられるのです。

 主イエスがこの祈りを祈った先に、十字架のみわざが実現しました。人間的に考えれば、十字架こそ不条理の象徴です。悪の力が勝利し、何の罪もないお方が究極のさばきを受けられるのです。「神がいるなら、なぜ?」ということの極み。しかしまさに、その暗黒の状態において、神のみこころが現されたのです。この贖いによって、私たちの罪が赦され、救いの道が開かれる。復活はそれを証明するものでした。その復活の主イエスを証しする教会のわざも、今なお続いている。ここに私たちの持ち場があります。自分が置かれている家庭や職場、学校、あらゆる人間関係、そのしがらみにおいてさえ「みこころがなるように」と祈るのです。

 祈りは、私たちに自分の十字架を担う力を与え、主の栄光を現す歩みに導きます。とりわけ今、この祈りを祈ることにはどんな意味があるでしょうか。国家間の戦争から身近な人間関係における課題まで、地上においてはあらゆる問題が渦巻いています。困難な課題に直面した時、私たちはしばしば、神のみこころを求めるつもりで、ただ自分が納得できる答えだけを求め、悲惨の責任者として神を咎めようとしてしまいます。確かに、永遠の平安や希望は地上にはありません。でも、神はそれを実現するためにキリストを送り、私たちの罪の問題を解決して下さいました。神のみこころは、わたしたちを愛し、救う御心です。この御方に心を開き、その救いの計画に参与させて頂きたい。あなたは今、諦めの中に眠り込んでいないでしょうか。けれども、主はこの祈りを通して、私たちを悔い改めに導き、自分の思い描く小さな世界ではなく、大きく広い神の世界に連れ出して下さいます。