「御国が来ますように」  

御国が来ますように  

 2023年8月

マタイの福音書6章10節

マルコの福音書1章14-15節

牧師 中西 健彦

 

 初めて聖書のメッセージを聞く人から、説教者が何を語っているのか、ほとんど意味がわからなかった、という感想を聞くことがあります。それは聖書が、私たちが普段耳にする言葉と異質であることが一つの原因でしょう。悔い改めてキリストを信じることは、それまでの私たちの生き方の延長線上にはないものです。だから理解できませんし、その主張がわかっても従うことには躊躇したりします。けれども、その呼びかけに応える先に新しい景色が開けると、聖書は私たちを招いています。

 主の祈りは、神の主権を認める願いから始まり、最初の3つの願いは互いに関連しています。「御名が聖とされるように」という祈りは、必然的に御国の到来を願うものです。また、御国は神のみこころが実現している所でもあります。一方、この世界では神が神としてあがめられず、その御名は汚され、侮られています。人々は災難や不幸が起こると「なぜ、こんな事が起こるのか?」と言い、「結局、神などいないのだ」という結論に至ります。確かに今日も争いは絶えず、不正や悪がまかり通る理不尽な現実があります。ですが、それは人間の罪から生じる問題です。

 神はそんな世界を諦めず、やがて来るべきメシアが救いをもたらすことを約束されました。時至って現れたのが、イエス・キリストです。主イエスはその働きを始められるや、言うのです。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。主イエスの到来は、そのまま神の国の到来を意味しました。

 ただ、それは私たちにとってまるで異世界からのメッセ―ジです。私たちは、自分の人生を自分のものと思っていたからです。その心の王座を神に明け渡すことを、肉の自分は妨げます。「聖書がいい話なのはわかった。だが、何事もほどほどが肝心。鵜呑みにすると、自分の人生がおかしくなる」と囁きます。でも、そこで考えたい。私たちが自分の生きたいように生きたとして、そこに本当の満足があったでしょうか。一時的に心の渇きが癒やされたとして、それは再び渇くものです。聖書はその状態を「自分の罪に死んでいる」とさえ言います。

 ですが、主イエスは「神の国が近づいた」と語ります。私たちが心を開いて神を王座にお招きする時、主は憐れみ深い、聖なる父として私たちを治めて下さいます。それは恐怖をもたらす支配ではなく、私たちが本来造られた時の姿へと回復させ、真の平安と幸いに至る歩みです。だから自分の殻にこもった生き方から方向転換し、神に王として治めて頂く道が開かれるのです。

 この神の国は、主イエスの到来とともにすでに来ていますが、いまだ完成はしていません。この神の国は「すでに」と「いまだ」という両面があります。

 まず、「すでに」ですが、マルコ冒頭のみことばにあるように、神の子が人として来られた事自体、「神の国の突入」といえる出来事でした。そして、主イエスの地上の歩みにおいて、病を癒やし、悪霊を追い出したことは御国が既に来たことの現れでした。また、パリサイ人たちは「神の国はいつ来るのか」と尋ねました。当時のユダヤはローマ帝国の支配下にありましたから、人々は神の国が来ればその大国の支配から解放されると考えていたようです。しかし、主イエスは言うのです。「神の国は、見える形で来るのではなく、あなたがたのただ中にある」(ルカ17:21)。それぞれ置かれた状況は違いますが、信仰を持って日常を生きる時、そこに神の国が来ています。私たちが遣わされた所で、主に従って生きる時、神の国はそこにある。だから、そこで「御国を来たらせたまえ」と祈る時、自分が今なしていることも、神が治めて下さるように願っているのです。

 一方、「神の国はいまだ完成していない」という面もあります。先ほど述べたように、この世は神に反逆し、サタンは猛威を奮っています。真っ当に生きようと願いながら、そうはいかない不条理な現実が私たちを襲います。罪から生じる悩みも尽きません。程度は違えど、私たちはそれをリアルに経験しているので、世の成り行きはキリストと悪魔との間の勝負のつかない綱引きのように考えるかもしれません。しかし、既に勝負はついています。十字架と復活の御業のゆえに、キリストが勝利を先取りして下さいました。だから、どちらに転ぶかわからない勝負ではありません。終わりの日に、確かに神の国は完成するのです。

 ですから、今日一日の歩みを、その御国の完成につながるものとして、その祝福を望み見て今を生きるのです。また、主イエスは神の国をからし種にたとえました。からし種はゴマのように小さいですが、成長すると約3メートルほどに大きくなります。そのように神の国は、今は目立たないかもしれません。でも、私たちの思いを超えて、御国は広がっている。実際、主イエスの福音は、パレスチナの一地方から発信され、今や私たちの元にも届いています。

 やがて私たちは、神の前にどのような人生を生きたか問われます。聖書はこの私たちの地上の歩みを、家造りに喩えています。私たちにはキリストという土台が与えられましたが、その上にどんな家を建てるのかはそれぞれに任されています(Ⅰコリ3:10-15)。その働きは主の日に明るみに出されます。ですから、目先の利益に囚われずに、永遠の視点から今を捉え、委ねられた働きに取り組みたい。私たちがこの祈りを真心から祈る時、そこに御国が現れます。

 神の国はすでに到来し、やがての完成を待っています。私たちはその緊張の間を生きています。神が取り戻された神の国の領土、それが私たちです。神はあなたの只中で、神の国を広げていこうとされています。神の国は既に始まっており、種がまかれ、芽生えています。私たちの目にははっきり見えないかもしれませんが、成長が続いている。「御国を来たらせたまえ」と祈りつつ、それぞれの所でこの神の国を建て上げたいと思います。