「御名が聖なるものとされますように」 

御名が聖なるものとされますように   

 2023年7月

マタイの福音書6章9-10節

牧師 中西 健彦

 

かつて聖書神学舎で教鞭を取られた遠藤嘉信という先生がおられます。遠藤先生は難病ALSを患われ、48歳の若さで主の元に召されました。最初は小さな異変でしたが、徐々に筋肉が動かなくなり、最後はパソコンのキーボードさえ打つ力をなくし、視線で会話するしかなくなっていきました。病が発覚してから、沢山の人が祈りつつサポートしました。弟さんもお見舞いの度に弱るお兄さんの姿を見て、必死に神様に癒しを願いました。けれども、遠藤先生は「癒やしを祈るのではなく、神の栄光が現れるように祈ってほしい」と言われました。日に日に衰え、普段できていたことが奪われていく中、わらにもすがる思いで癒しを求めるのは、人間的には当然の心情です。でも、遠藤先生は早い段階でご自分の病を受け入れ、弱さを抱えつつ、神の主権を信じて、残された地上の生涯を精一杯生きられました。神の栄光を求め、その主権に信頼した信仰。それは「御名が聖なるものとされますように」という祈りと密接な関係があります。

「天にいます私たちの父よ」と始まる主の祈りは、その後6つの願いが続きます。十戒と同じく、最初は神に関することが祈られ、その次に人間に関する事が続きます。最初の3つの願いを原文で読むと「あなたの名、あなたの国、あなたの思い」となっています。これは生まれつきの人間の発想からは出てきません。祈りといえば、自分の関心事で一杯になりがちです。けれども主イエスは、まず神の栄光を優先して求める必要があると言うのです。

この原則に心を留めるなら、私たちは祈りの意味を改めて定義し直す必要があるでしょう。祈りは、神から満足の行くサービスを受けるためのお客様相談室のようなものではなくて、一つの礼拝なのだと。私たちの祈りは神の栄光か自分の願いか、どちらに向いているでしょう。自分の願いをまくし立てるよりも先に、神をあがめ、主の御心に信頼するのです。私たちがそれを選べるのは、父なる神は私たちの生活の隅々まで気を配り、私たち以上に私たちのことをご存知で、愛と配慮を持って必要なものを与えられるお方だからです。御子さえ惜しまない神だから、私たちはこの方を信頼でき、自分の願いに支配されずに祈ることができるのです。

 その上で、「御名が聖なるものとされますように」という第一の願いに入ります。聖書において名前は、その本質を表します。主は匿名の神でなく、歴史においてご自分について明らかにされてきました。だから、私たちは自分の願いをみこころとすり替えるようなことは許されない。主は私たちにご自分について名乗り出て、その願いとご性格を明らかにし、人格的に交わりを持とうとされるのです。またこの戒めは、自分を正当化することを目的に、御名を持ち出すことを禁じています。「聖書にこう書いてある」と一部だけを切り取り、自分を正当化する行為は、クリスチャンにとって誘惑です。しかし、信仰的な装いの背後にあるものを主はご存じであり、御名を軽々しく持ち出すことは避けなければなりません。

 ところで、従来の訳は「御名があがめられますように」という言葉でしたが、新しい訳では「御名が聖なるものとされるように」となっています。御名は元々聖なるものなのに、なぜあえてそれを祈るのか、違和感を覚えるかもしれません。ただ、ここに翻訳の一つのこだわりがあったそうです。この聖書の元の言葉を調べると、「神聖なものとして扱う」という意味があります。さらにこの「聖なる」という概念は、罪・汚れと相容れない、聖なる神のご性質に由来します。ですから、「御名があがめられますように」と祈る時、神の栄光を求めることに加えて、神ご自身を神でないものから区別して聖なる方として認められるように、と祈るニュアンスがあります。人間中心の神理解ではなく、あくまで神を神として認めることによって、神の栄光が現される。それを求める祈りなのです。

 それは私たちの罪と弱さの克服を願う祈りでもあるでしょう。御名を汚す罪から私たちを贖い出すために、御子が十字架にかかって下さいました。そうして新しいいのちの恵みに生かされていることを覚え、神のきよさを反映する民の生き方を身につける。その中で、私たちは自分と神のどちらを選ぶか、という戦いをも通されます。それは十字架を前にしたイエス様の次の言葉に見ることができます。「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください」。イエス様は十字架に向かう前に、この第一の祈りを祈られました。その主イエスに従う私たちも、何の問題もない人生を歩むのではなく、自分の十字架を負うことが求められます。けれどもその中でこそ、主の御名が聖とされ、私たちは新しいいのちに生かされていきます。

 その際、私たちは自分の力で御名を証しするのではありません。この祈りには「聖なるものとされる」というように受動態が使われています。この聖なるものとする主体は、やはり神様です。むしろ私たちには、御名の栄光を現すために、聖霊が与えられています。「アバ、父よ」と叫ばせる御霊は、私たちを神の子として整え、御名を聖とする生き方に招いておられる。ですから、「御名が聖なるものとされますように」と祈る度に自らを神の御前にささげ、「私をきよめ、整えてください」と願うのです。

 遠藤先生もまた、地上最後の歩みにおいて神の栄光を豊かに現されました。もちろん闘病自体は生易しいものではなく、深い精神的な落ち込みも経験されました。でもその時期を乗り越え、再び明るさと意欲を取り戻されました。その頃、天国に行くこともよく話されました。「私は、いなくなるんじゃない。場所が移されるだけなんだよ」。奥様が「神様、なぜですか…」と涙した時にはいつもこう言われました。「なぜは、問わなくていい。神は愛して下さっている。委ねよう」。いよいよ呼吸が難しくなってきた頃、奥様はたまらなくなって言いました。「今、ここにイエス様が現れて、御手を置いてくださったらいいのに…」。すると遠藤先生は重そうなまぶたをゆっくり上げて、「もう、御手は置かれてるよ」と微かにほほえみました。その召される時まで、神の愛の御手が既に自分の上に置かれていることを実感していたのです。この姿を通して、神が今も生きて働いておられること、この一人の信仰者の死に際しても豊かに栄光を現されたことを証ししています。

 今、あなたは神を神としているでしょうか。人生の行き詰まりの中でも、御名の栄光があがめられるようにと祈る時、たとえ願い通りに事が進まなくても、そこに神の御手があることを信じることができる。私たちもこの祈りを祈る中で、自分の人生に神の栄光が現されるように求めたいと願います。