「天にいます私たちの父よ」

マタイの福音書6章9節

「主の祈り」は「天にまします我らの父よ」という呼びかけで始まります。これは私たちがいつもどなたに対して祈っているのか、自分はそのお方の前にどのような者かを教えてくれます。祈る時、私たちはしばしば自分の関心に目が向きがちですが、祈る相手をふさわしく想起できるかどうかで祈りの性質も変わってくるでしょう。

Ⅰ. 父よ―神を父と呼べる幸い

私たちは祈りの度に、当然のように「天の父なる神様」という風に呼びかけます。でも、全く教会に馴染みのない人が聞いたら、少し驚くのではないでしょうか。例えば神社などでは「学問の神様」などに祈るわけですが、そこでは普段あまり自分とは関わりのない神々にピンポイントで願いを叶えてもらおうとするわけです。だからこそ頼み倒したり、貢いだり、相手を根負けさせるような発想になる。でも、聖書の語る神は、それとは全く異質の、「父」なる神だというのです。

ただ、「父」に関して、私たちのイメージはそれぞれ違います。もしそれがネガティブな印象のものならば、この「父なる神」は好ましくないでしょう。けれども、この天の父は地上の父親とは違います。むしろ主イエスの語る「父」とは、あの放蕩息子の父親(ルカ15章)のような姿です。家を出て遠い国で放蕩し、無一文になった息子。それはまさに私たち罪人を表しています。でも、その私たちが向きを変えて家に帰る時に、走り寄って抱きしめてくれる父親。それが父なる神の姿です。子供の帰りを心から喜び、そのためには犠牲を惜しまれないのです。この恵み深い父こそ、聖書の語る父なる神の姿です。

 本来、私たちの側から神を父と呼べる資格はありませんでした。私たちはみな、生まれながらに神の敵として歩んでいたからです。そんな罪人の祈りを、そもそも神は聞き入れる義理もありません。では、なぜそんな私たちが神を「父」と呼べるのか。それは、神がキリストを世に遣わし、その十字架の故に私たちの罪を贖い、このキリストが私たちと神との間に立って下さるからです。御子を受け入れ、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権が与えられているのです(ヨハネ1:12)。ですから「父よ」と祈る時、何を願うよりも先に、自分が神の子とされている恵みを覚えることができます。父なる神は、ご自分の子が話しに来ることを待っておられます。私たちが呼んで初めて応える神ではなく、私たちが呼ぶ前から、実は既に私たちは呼ばれています。この神様に私たちは応答して祈るのです。

Ⅱ. 私たちの神の家族の祈り

次に考えたいのが「私たちの」という言葉です。「私たちの父なる神」は、私だけでなく他の兄弟姉妹の父でもあります。私たちはこのお方の前に、神の家族である教会の交わりを覚えつつ祈るのです。私達は密室において、それぞれ一人神の前に立ちます。ただ、まさに一人で祈る時、「私たち」と言い得る神の家族がいて、その一員とされている、そして実は独りではないことに気付かされるのです。北栄教会が毎年発行している「炎の祈り」という小冊子があります。これは毎日誰かが、自分のために祈ってくれている仕組みになっています。たとえ自分が祈れない状況だったとして、自分のために祈ってくれている人がいる。それはありがたいことです。

また、「私たち」を主語にして祈るとは、他の兄弟姉妹の魂にも関心を払うことです。また、この「私たち」の広がりを思う時、自分の見える範囲だけでなく、世界の教会と連帯して、例えば戦争の危機にある地域、災害に遭っている人々、苦しみの中にある人々のためにもとりなすことが含まれるでしょう。私たちの祈りは、どれくらいの視野の広がりを持っているでしょうか。

.  天にいます天の視座からの祈り

最後に考えたいのが「天にいます」という言葉です。これは地上的なものに注目しやすい私達の目を、天に向けさせる言葉です。天とは、聖書の中で神がおられる所を指します。ただ、天におられるからといって、私たちから遠く離れた神ではありません。天におられながら、この地にいる私達に配慮を示して下さるお方。私たちの髪の毛の一筋も、あるいは一羽のすずめさえこのお方の前に忘れられていません。

また、この言葉は、神が私の心の内だけに収まる方ではないことを教えています。以前あるクリスチャンではない方と話していて、思いがけず信仰の話になりました。その人は自分なりの宗教観を持っていて、「神は自分の心の中にいる」と言われていました。きっとその人は、神様を自分の心の声と同一視していたのでしょう。けれども、天にいます父は、決して人間の願望の投影などというものではありません。この祈りは狭い自分の世界から、私たちを広い世界に解き放つ祈りです。私たちは祈りつつ、自分で答を見つけるのではないのです。

また、私たちは祈りが聞かれているかに関して、自分の感覚に頼ることがあるかもしれません。昨日はよく祈れたけれど、今日はなんだか聞かれた感じがしない、と言う風に。でも、天にいます父に祈る時、祈りが聞かれているという確信を、自分ではなく御言葉の約束に置く必要があります。主イエスは言われました。「あなたがたの父は隠れた所で見ておられる」と。ですから密室で父の前に出る時、その祈りは聞かれている。そう信頼して祈るのです。

一方、実際の問題として、私達の願いが叶えられないこともあります。「では、神はいないのか」というと、そんな単純な話ではありません。むしろ聞かれない祈りもまた一つの祈りの答であり、そのことも父なる神の配慮の元にあるのでしょう。塚本虎二という人は、ある本に「もし自分の願いが全て聞かれたら、自分は地獄の子になっていた」と記しました。自分の願いは自分中心だったり、その場しのぎのものだったりします。だからそれがいちいち叶えられたら、逆に危ないかもしれません。でも、天の父のみ心が叶えられ、自分の願い通りにならない所に私達の安心がある、というのです。私たちの見える範囲が全てではなく、天におられる神にしかわからないことがあります。このお方は私たちに必要なものを、求める前から知っておられる父です。このお方が最善をなして下さることを知っていれば、祈りは父なる神への信頼の表れとなるでしょう。逆に、求めずして良いものが与えられることもあります。ですから、私たちは神と取引するような祈りではなく、神の子とされた恵みを覚えつつ、信頼を持って呼びかけるのです。

天にいます私たちの父よ。この呼びかけが神の子としての呼吸となるように、たとえ喘ぎながらであっても、心を込めてこの方に呼ばわらせて頂きましょう。